いつも当ブログをご覧いただいている皆さん、長いこと更新が滞って申し訳ありません。コロナ禍でもあり、どうしても記事内容が偏ってしまい、ついついもう一つの交信の方に興味が移ってしまっておりました。新しい内閣もスタートしましたので、気分一新、改めて再開したいと思います。
さて、先日浜松市から、発掘調査を続けている浜松城二の丸の発掘調査について発表がありました。今年度の成果として、現在は掘削されて半分が失われてしまった本丸の北東端の石垣部分の発見と、「御誕生場」南側の急で深い堀の発見についてでした。特に本丸石垣の末端部については、廃校となった元城小学校の校舎やプールなどの建設により、失われてしまったことが考えられましたので、大きな発見です。
久し振りの天守曲輪です。ちらほらとマスク姿の観光客が訪れていましたが、以前のような外国人の団体さんの姿はありませんでした。
今回の発掘現場と当時の絵図です。縮尺や方位が正確でないので、位置関係が微妙ですが、大まかにはこんな感じです。
現在の本丸伏見櫓跡から見た東方面です。掘削により、石垣が途中で失われています。今回の調査はこの延長上を発掘したものです。
発掘現場に行ってみると、こんな表示がされていました。報道発表があったので、もっと注目されているのかと思いましたが、天守や本丸に向かう遊歩道から外れているせいか、目を止める人は見られませんでした。来週末に現地説明会が開かれるため、昨日は作業は行われておらず、広い現場はがらんとしていました。
遺構には、保護のためのブルーシートが掛けられており、直接見ることはできませんが、かなり急な勾配の濠であったことが判ります。
こちらが石垣の北東端の発掘現場です。この場所は、建築物から離れた場所だったせいで、掘削による破壊を免れたようです。この発見により、本丸東側の位置が判明しましたので、今後の発掘調査の大きな手掛かりとなります。
今回、久し振りに浜松城を訪問しましたが、新たな発見がありました。それは、かつて本丸の表門であった鉄門(くろがねもん)の推定位置の標識が設置されていたことです。鉄門は、絵図や文献によって間口が9間(16.4m)ある立派な門であることが判っていますが、本丸東側の掘削や市役所の地下駐車場工事によって地表面が削られてしまったため、礎石などは失われてしまったものと考えられていますが、天守曲輪に接する長屋門の間口から、おおよその位置が推定でき、その場所に標識が設置されたものです。
歩道上に設置された鉄門の位置標識。歩行の邪魔にならないように薄く小さな形状です。
標識と標識の間隔はこんなにあります。向こう側の標識は、そのままでは確認できませんので、被っていた帽子を置いています。
こちらは弘前城の北門ですが、間口は8間です。鉄門は9間ですからこれよりも更に大きな門だったと思われます。こんな立派な門が永久に失われてしまったことは本当に残念でなりません。
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