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2006年10月25日 (水)

ハートフルな社会であって欲しい

喉に障害のある女の子が通常の保育園に通うことがやっと「裁判所」で認められました。保育園は幼児の発育を助ける為の施設だと思うのですが、どうして判決が出るまでハンディキャップを克服しようと頑張っている少女に手を差し伸べなかったのか残念でなりません。

かつてNHKTVで全盲の少女やサリドマイド禍により両腕を持たない少女が一生懸命一般の小中学校に通うドキュメンタリー番組を見て言いようのない衝撃を受けたことがありました。ご両親は不幸(私はそう受け止めてしまいました)な身の上のわが子を何とか社会に受け入れてもらおうと心を鬼にして通学を当たり前のこととしてこなせるように猛特訓を課したのです。子供たちは介助無しに通学する能力を見事獲得し、その結果学校側も特別扱いしないで暖かく受け入れました。私は人間の持っている困難に対処する能力の高さにただただ感動しました。

それにしても、あの頃に比べて昨今は世間が冷たくなっているように思えてなりません。保育園、学校は何の為にあるのでしょう?単に知識だけを習得したり、単位をごまかしてまでして進学率を高める為だけでは無いはずです。健常な子供が健全に育つのは勿論、もしハンディキャップを持った子供がいれば時にはその子をサポートして、みんなで共同生活していくことを学んでいく為の大切な場ではないでしょうか。今日では個性重視が言われる割には、自分達と異質なものに対しては排除する姿勢が強いように思われます。自ら努力している人に対して、もっとやさしく受け入れる寛容な社会であっても良いのではないかと思います。

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コメント

6歳の女の子に「(保育園へ行かせてくれて)ありがとうございました。」と言わしめる社会とは、正常なのでしょうか?
これも市の(看護士1人を雇用する)年間800万円の維持費用と他の自治体へ波及する影響を考えた上での行政対応が問題視されています。
「みんなちがって みんないい」
http://www.geocities.com/sisimaikusiki/2001/1028/kanekomisuzu.html
山口県の女流詩人金子みすずの詩の一文です。
世の中にはいろんな立場や境遇の人がいる。お互いに不足している部分を自然に補い合うことが社会生活なのです。頭では理解しています。子供にもそう教えているつもりです。でも、そうありたいと思っているだけなのかもしれません。
そんな社会であれば、いじめも無くなることでしょう。
あの女の子の笑顔の眩しさを大人達はどう受けとめられるのでしょうか?

前回のコメントのお話になります。
公務員バッシング...そうは思っていません。道理にかなわぬ批判ではありません。「公務員は国民の下僕」たるべきが公務員の姿。
私は成りたくて公務員になった訳ではなく、成りたかった職業が公務員だったというだけです。しかし、成ったからにはありとあらゆる法律、規則、慣例、しがらみに捕らわれています。
地方自治は転換期に来ています。国と直結していた昔と違い、地方分権へ移行しつつあります。国に向いていた顔を国民(都道府県民)へ向け、税収に見合ったサービスを行わなければいけません。
時代が変わったのです。全てを見直し、体制を変えていかなければ今のニーズに対応はできないでしょう。その声を自分たち(公務員)から起こす必要があると思います。私は、行政に直接携わる職ではありません(技術職なので)。しかし、ニーズの移り変わりはヒシヒシと感じています。時代遅れと言われないように体制の変換を考えていきたいと思います。
(雨辰さんの記事には、私が思っていたことが書かれているので、意見交換がしたくて、ついいろいろと長文を書いてしまいます。ごめんなさい。)

投稿: 山奥 | 2006年10月26日 (木) 06時32分

山奥さん、いつもコメントありがとうございます。山奥さんのクイックレスポンスにはいつも頭が下がる思いです。これからも宜しくお願いします。
行政には行政なりに公正な業務の執行に対する責任が有るのかも知れません。でも、もし仮にあの少女の通園を咎める圧力があるのであれば、担当部署は声を大にして人道的処置を執り行っていますと一喝する気骨を持って欲しいものだと思います。少なくとも今回の決定に異議を唱える人がいるようでは美しい日本など有り得る筈もありません。弱い立場の人にこそ公の援助があってしかるべきだと思います。
江戸から明治にかけて多くの外国人が我国を訪れましたが、一様に社会全般の清潔性と高い教養(識字率は当時のどの国よりも高かったのです)と道徳観に驚き、尊敬の念を抱かれました。今日日本は高い工業力や最先端技術力で世界から一目置かれる立場になりましたが、残念ながら現在の国民性はどの国からも尊敬されることはありません。流石にかつてのようにエコノミックアニマルと揶揄されることはありませんが、さりとて日本人のようになりたいといった様な評価を得ることも無いのです。衣食が足りて礼節を知ると古人は教えてくれましたが、私たちは衣食と引き換えに礼節や慈愛といった精神を忘れてしまったのではないかと思われてなりません。今回のことを思うにつけ、物だけが溢れかえる社会より、全ての子供達の瞳が輝いている社会の方にこそ私は住みたいと思っています。

投稿: 雨辰 | 2006年10月26日 (木) 20時55分

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