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2007年1月30日 (火)

赤ちゃんは誰のもの

柳沢厚労大臣が女性を出産する機械に例えて、女性を中心とする野党の批判を浴びています。野党は比喩として機械に例えたことの言葉尻を問題にしていますが、私はそんな問題では無いと思います。

我国は今出生数の減少による少子化の問題に直面しています。少子化によって人口の構成バランスが崩れて、年金の負担年齢層の減少による年金制度の破綻の問題や様々な社会的負担を担っている人口の減少によって従来の社会システムの崩壊が懸念されているからです。しかし何故出生数は減少してしまったのでしょうか?実は少子化の問題は随分前から指摘をされていたのです。しかし時の政府や厚生省は統計の確定を待ってからと言う逃げ口上で、幾度と無く問題を先送りにし、実態とかけ離れた夢想とも言える出生率を掲げて有効な施策を打ち出さず、国民を欺いてきた結果なのです。

我国には子宝と言う言葉があります。私達は政府に言われたから子供を設けるのではありません。夫婦の愛の帰結として、家族のあるべき姿の具現化として子供の誕生を望み、授かるのだと思います。そして、中には医学的理由によって出産を望めない夫婦も沢山存在します。また、経済的理由や出産を許さないライフサイクル上の制約に拠って出産を諦めざるを得ない夫婦も数多くいます。それぞれの事情によって家族計画がなされ、日々の生活を送っているわけです。国民の健康で文化的な生活を管掌する厚労大臣がそんな国民の事情も理解出来ずに、ただ機械的に出生率だけを増加させれば事足りると考える認識が一番問題なのだと思います。

安倍総理は柳沢大臣を失言という解釈で擁護していますが、就任演説で力説した美しい日本とは個人の幸福の総和として豊かな社会が実現でき、その社会を見渡した時の表現として成り立つものだと理解していました。しかし社会の安定の為に出生数を増やせという思考は、かつてエコノミックアニマルと批判された経済効率最優先の姿勢と何ら変わらない唯物論的な考え方ではないでしょうか。国の宝と呼ぶにふさわしい存在ですが、赤ちゃんは望まれ、愛情に包まれて誕生すべきであって、決して打算や国家の都合によって出産が左右されるべきではないと考えます。その意味で大臣発言はこの国のあり方までも否定しかねない問題発言であると考えますし、責任は重大ではないでしょうか。

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コメント

私は雨辰さんより若い世代と思いますが、柳沢厚労相の発言をそこまで周りが批判するのかわかりません。確かに不快感を一部の人間に与えたこと否めません。しかし、わかりやすい表現として使ったとの説明であれば、理解できないものでも無いのでは?国民1人1人すべてに適切な発言というものは不可能です。あったとしても想いのこもっていないありきたりの言葉であって、聴衆へ訴える物ではないでしょう。
子作りを「畑と種」といった喩えで表現することは昔からありました(コメントを読む方で、「子作り」という言葉だけでも嫌悪感を持つ人がいるかもしれませんね)。
また論点が少子化という話であれば、話し手が産むことが可能な人のみを対象として話を行ったとも考えられます。不妊治療を必要とする方々が少子化傾向が見られた頃から急増していつのなら、原因として考える必要はあるいかもしれません。そうでなければ正常者(言い方が適切ではないでしょうが)を対象とした中での話として受け取って良いのではないでしょうか?大臣発言は、しくみ(機械)が効率的に動くために必要な施策として子どもを安心して産むことの出来る社会(治安・教育・医療・福祉・雇用等)へ向けての努力を政府は行っていくという強い意識の現れと私は感じました(現に大臣もそう釈明しています)。むしろ、大臣が発言していない趣旨のことをシュプレッヒコールしている女性議員や報道機関の方が、専業主婦を始めとする一般的な女性に対し蔑視発言をしているのではと思ってしまいます。
さらに言えば、私は現在の日本国民の考え方では福祉、年金体制は構築できないと考えます。いっそのこと国の施策としての年金制度はやめ、個人が自分のために積み立てる制度にし、国はその努力に対し上乗せするといったことにすれば良いと考えます。また、老人福祉については、基本的なこと(親の面倒は子が看る)の上に国の制度があることを認識するべきです。弱者を切り捨てろという考えではありません。弱者とそうでない人を明確に詳細に分け、助成制度を細分化し、自努力を促すのです。北欧の福祉国家のようになるのがイヤで、増税を許さない世論の中ではそうするしかないのです。
以上の私の不適切発言?は公の場ではないので許して下さいね。

投稿: 山奥 | 2007年1月31日 (水) 07時41分

山奥さんに同意です。

出生率を高める以外だと、人口増は海外からの移民を受け入れるくらいしか手は無いのではないでしょうか?

もちろん、出生率を高めるための施策(安心して産み育てることが出来るさまざまな仕組み)は必要でしょう。
これを「がんばれ」で済ませることは、閣僚としては浅慮だと思いますが。

投稿: koz | 2007年1月31日 (水) 16時58分

山奥さん、Kozさんコメントありがとうございます。この国の悪しき流れとして言葉尻を捉えて批判する傾向が強まっているのは困った問題です。いわゆる差別用語と言われて身体的特徴を指す固有名詞が文学作品や慣用句などでの使用を許さなくなっています。歯に物が挟まった言い方になりますが、相反する立場のどちらか一方のみに利益(不利益)をもたらすことを片○落ちと言う言い方は差別的だと言うのですが、言葉遊びとしか思えません。また、従来の固有名詞をフランス語的に○○の○○な人と呼ぶことがそのような立場の方への差別を無くし、支援しているとはとても思えません。私には却ってそのことを強調しているようにしか思えません。(私の独断なのかも知れませんが・・・)慇懃無礼と言う言葉も頭をよぎったりします。
前置きが長くなってごめんなさい。私も言葉尻だけを捉えて批判することには抵抗を覚えます。ただ、いかに断りを伴ったにせよ厚労大臣という立場で使ったのはいかがなものかと思います。
年金や福祉のレベルを維持したり、治安や消防の体制を維持するためにもそれを支える若い世代の存在はとても大切です。現在の出生率で推移すれば数十年先に人口が2/3に激減してしまうと言われていますが、その中には高齢者が圧倒的に多く含まれますから、更に少ない現役世代が社会を支えなければならないのです。
かと言って税金が足らないから増税しようと言うのと同様に、単純に人口が足らないから頑張って生みましょうと呼びかける発想がおかしいのではないかと思うのです。
太平洋戦争が終わった時、ベビーブームと呼ばれる出産ラッシュが起こりました。この時、国が国民に出産を奨励したわけではありません。逆に物資が不足する中でも多くの家族と一緒に平和な暮らしを営みたいと言う強い思いがそうさせたのではないでしょうか。

翻って今日の状況はどうでしょう?世界規模の環境の悪化、非正規社員化の増加等とどまることを知らぬ雇用条件の低下、いじめや子供を対象にした凶悪事件の増加等など少子化なのもうなずけてしまいます。
幸い私は二人の子供に恵まれましたが、老後を彼らに応援してもらおうと言うつもりはまったく有りません。私達夫婦の生き方考え方のほんの少しでいいから継承してくれる後継者を育てたかったのです。目論みは必ずしもその通りにはなっていませんが、それはそれで人生の面白いところだと思っています。

投稿: 雨辰 | 2007年1月31日 (水) 22時19分

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