旅のフォトギャラリー ~島原~ ’09.09.14
島原城と原城はよく混同されますが、天草四郎の天草の乱で一揆軍が籠ったのは島原城築城で廃城となった原城で、島原城からは20Kmほど離れた別の城です。
本丸跡に天守、三重櫓が古図を参考にして再建されています。島原城の内濠はあまり水位がなく、石垣の高さを引き立てる結果となっています。
二の丸跡。二の丸の外観を見ると島原城が堅城であったことが良く判ります。島原城は松倉重政によって対キリシタンの城として築かれた勇壮な城でしたが、養子勝家の圧政に立ち上がったキリシタンの島原の乱によって勝家は切腹を命じられ、以後城主が変転することとなりました。そんなことがあってか雑草が生い茂るままとなっており、住民の愛着が感じられないように思われるのは残念なことです。
島原城の野外に展示されている石で出来た水道管と籠城の際の食糧備蓄用の瓶。二の丸跡を公共施設として利用しながら、郷土の文化財をこのような形で展示している島原市の神経が判りません。
鉄砲町に残る水路と武家屋敷。水路は上水道として使われていたものです。
流れる水は今でもすくって飲みたくなるほど清らかでした。
水路周辺は住民の協力によって歴史的景観が保たれています。
公開されている武家屋敷の一つである篠塚邸。他の邸宅もそうでしたが、屋根の藁ぶきが傷んだまま放置されているのが残念でした。
山本邸にある障子戸の透かし彫り。武人でありながら風流をたしなんでいたことが、良く判ります。
道の駅みずなし本陣ふかえから見た朝の普賢岳(平成新山?)。後列右側が愛車です。
島原は1763、1792年と噴火による災害をたびたび経験してきましたが、その都度復興して今日に至っています。ここ深江地区は平成3年に始まった大噴火によって甚大な被害を受けました。その被害の大きさは14日付の「今日は島原まで」の添付写真の通りですが、今日その痕跡を感じさせないほど見事に復興し、日常生活を送っていることにこの地に生きる人々のたくましさを強く感じました。
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