夢の跡へ
山合いを流れる天竜川が大きく東に屈曲する場所は戦国時代以前は軍事上の要衝でした。そこに築かれた二俣城は徳川と武田勢が存亡をかけた争奪戦を繰り広げた歴史の舞台ですが、江戸時代になって廃城となり荒廃してしまったので構造などの詳しい記録が残っていません。今日は浜松市文化財課の主催で、先月末から行われている発掘調査の現地見学会が開かれたので行って来ました。
天竜川左岸の堤防上から見た二俣城跡全景です。当時ここは二俣川が天竜川に流れ込む合流点でしたので、二俣城は西側を天竜川、南側を二俣川と言う天然の堀に守られた堅城でした。ただ、天竜川の水位が上昇すると二俣川の水位も上昇してしまい幾度となく洪水に見舞われたので、難工事の末に現在の場所に流路を変えています。
旧二俣川を挟んで対岸に位置する鳥羽山城の大手門跡です。ここは武田側に落ちた二俣城を奪い返すために家康が築いた陣地跡に築城された城で、本丸跡には庭園が築かれた戦国の城としては大変珍しい城です。
鳥羽山城大手門へと続く大手道。道幅は6mもあり、この城の格式の高さが判ります。
試掘によって大手道の北側の斜面から発見された石垣。当時は今よりも1mも下がったところが路面でした。鳥羽山城跡は近代になって公園として活用され、私も小学校時代に遠足で来た覚えがありますが、遊具などがあって当時は城址だとは思いませんでした。それだけ人の手が入ってしまっていたのでしょう。
二俣城井戸曲輪西端から見た鳥羽山城。二俣城は水源を天竜川の流れに頼っており、この反対側は急峻な崖となっていてそのまま本流の流れに落ち込んでいます。当時はここに櫓を組んで流れから直接水を汲んでいました。
二俣城天守台。石垣を築いたのは1590年に家康から城を引き継いだ豊臣家家臣で、三中老の一人だった堀尾吉晴です。吉晴は同時期に浜松、二俣城を石造りの城に改築し、鳥羽山城を築城しました。これは駿府、そして江戸へと東の地に移封された家康の反攻に備えた秀吉の命によるものと思われます。浜松城同様にここにも天守を建てるつもりだったのかも知れませんが、現在までに礎石らしきものは見つかっていません。1600年には関ヶ原の合戦の功績によって出雲に移封になっているため、工事半ばで築城が中断されてしまった可能性も考えられます。
また、鳥羽山城の築城に際しては、一旦築いた二俣城の石垣を転用したとの話もあるようなので、もしかしたら家康への傾倒の過程で、信長の命によって自刃して果てた家康の嫡男、信康を慮った可能性も考えられます。
二俣城は大手門の先に二の丸があり、その北側に本丸があります。二の丸と本丸の間には中仕切り門が築かれており、昨年度発掘調査されていました。中仕切り門は二の丸側から90度曲がった位置に築かれており、その通路上には石段があったのではないかと考えられ、今回の発掘となりました。しかし右手の土塁を含めて後世の手が入ってしまっていることが確認され、今回の発掘では詳細は判りませんでした。また発掘されていない二の丸跡も保存状態が芳しくない事が予感されるということです。
浜松市では今後も発掘を続けて城の全容を明らかにし、現在は鬱蒼とした木々に覆われていますが、地域の了解を得ながら整備を図って行きたいと言うことです。
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