何とかしてよ、浜松城
昨日は駿府城の話題を取り上げましたが、家康と言えば浜松城も生涯において重要な出来事がたくさんあった場所です。今川義元の死によって名実ともに岡崎城主の地位を復権した家康は曳馬城を攻め、落城させると曳馬城を見下ろす高台に浜松城を築きました。家康は浜松城を足掛かりにして周辺に勢力を拡大、途中三方原の合戦での手痛い敗北も味わいましたが、武田氏の滅亡と共に駿河を手中に収めました。この時期、浜松城は家康の本拠地として重要な城であった訳です。
今日残されている浜松城の遺構は野面積みの石垣が有名ですが、どうも石垣は次の城主となった堀尾吉晴の手によるもののようです。吉晴は秀吉の重臣でしたが、秀吉はこの時期家康を恐れて掛川城に同じく重臣の山内一豊を配し、石垣の上に天守を持った城を築かせ、後に高知に移った一豊は掛川城を模して高知城を築いたと言われています。また家康の本拠地であった岡崎城にも配下の武将を置き、石垣を築かせて改修させていますので、自身が築いた大阪城を手本に石垣による城の強化を号令していたと考えられます。
当然、吉晴にも指示があり、それまでの土塁から石垣による城に衣替えしたのではないかと考えられます。また、浜松城の天守には井戸が掘られていますが、吉晴が後に築いた松江城にも天守内部に井戸があることからも浜松城の天守は堀尾吉晴によって建てられたと考えるのが自然です。浜松城の天守は江戸時代の早い時期に失われていますが、もしかすると仇敵となった豊臣方の天守が存在することが不都合だったのかもしれません。
吉晴が築いた松江城。浜松城の発展型と考えるのが自然ではないでしょうか。
第二次大戦後、浜松市によって鉄筋コンクリートで復興されたのが現在ある天守ですが、とにかく限られた予算で建てられたので、恐らく松江城に似た外観であったであろうことも考慮されず、石垣の大きさに似合わぬ不釣り合いな建物となってしまいました。昨今は城郭を復元する場合は、木造建築が原則とされていますので、多大な費用が必要となりますが、是非創建当初の外観、規模で再々建を果たして欲しいものです。
現在の浜松城天守です。石垣の右側に偏って建てられ、左側1/3ほどが余ってしまっていて実に不自然です。付櫓を含めて考えれば、恐らく今よりも1.5倍から2倍の規模であったのではないかと思われます。
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