家康への敬称
今年は徳川家康の没後400年にあたり、家康に関する記事が目立っています。そんな中、大阪出身の観光ボランティアが、当地の人が家康を呼び捨てにしていることに当初は大変驚いたと発言した記事を読んで、目からうろこの思いがしました。
言われてみれば、各地の城主であった武将は清正公とか信玄公と呼ばれています。また、静岡市の駿府城のHPでも家康公と記載されています。ちなみに浜松城公園のHPでは家康とされて敬称は付いておりません。 HPはこちら http://www.hamamatsu-navi.jp/shiro/
家康は浜松城を築城し、17年間居城としましたが、その間三方ヶ原の合戦での大敗、信長の命による正妻築山御前の殺害、嫡男信康の切腹と言う人生の重大事をこの城で経験しました。後に天下人となり、江戸から駿府に戻って大御所と呼ばれ、国政を牛耳ることになりましたが、ついに浜松に戻ることはありませんでした。
駿府では天下普請によって巨大な駿府城を築いたり、城下町の整備を行ない、民衆に彼の威光を十二分に見せつけました。一方の浜松には三方ヶ原の合戦で敗走のおり、茶店で食べた小豆餅の代金を払わず逃げて、追いかけた老婆に代金を支払った伝説が残っており、「小豆餅」「銭取(ぜにとり)」の地名の由来としてこの逃亡のエピソードが語られ続けています。また、敗走の際に家康が隠れて難を逃れた伝説も各地に残されています。またお城に逃げ帰った時に、後日の戒めとして有名な顰像(しかみ像)を描かせています。
つまり、浜松市民にとって徳川家康は、豊臣家を滅ぼして天下を統一した比類なき偉大な武将ではなく、戦に敗れて逃げ帰ったお殿様のイメージが強すぎるのではないかと思います。また、浜松市も市のゆるキャラマスコットとして家康君を採用しており、武人としての立ち位置ではありません。このような理由で、浜松では家康に敬称を付けて呼称することがあまり一般的ではないように思います。
浜松城本丸に立つ若き日の家康の銅像ですが、あまり英雄として語られることはありません。ここにも浜松市民のPR下手が表れているように思います。
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