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2015年10月18日 (日)

二俣城現地説明会速報

本日浜松市文化財課主催の、二俣城発掘調査の現地説明会がありましたので行って来ました。二俣城は上洛を目指して南進した武田信玄が攻略した後、家康が何度か奪還を試みましたが果たせず、長篠の合戦で武田方が大敗北した後にやっと奪い返した遠江における戦略上の重要拠点でした。

天下を統一した秀吉によって、新しく浜松城主になった堀尾吉晴が二俣城も豊臣流の石造りの城に改修しましたが、大手門や中仕切り門、天守などの重要部分に限られていると考えられていました。二俣城は関ヶ原の合戦の後、廃城となって樹木が生い茂った状態となって放置されていましたので、これまで山中に分散する遺構について詳しいことが判っていませんでした。

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当時は天竜川との合流点だった現在の天竜川東岸の堤防上から見た西曲輪の石垣。

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かつては、このあたりが二俣川の合流点で、右岸に川船の港があったと考えられています。

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今回発見された石垣。堅固とされる野面積みですが、上部は崩れていましたが、当時は3m程の高さがあったようです。

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崩れた部分の地下には裏込めの栗石があったので、かつてはこの高さまで石垣があったことが裏付けられました。

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昨年発見された石垣。今回発見の石垣と繋がっていたものと考えられます。この石垣は二俣川からも天竜川からも望むことができますので、船旅をする人々に豊臣政権の威光を示す目的があったのではないかと考えられています。

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二俣城本丸と二の丸を仕切る、中仕切り門から見た天守台。織豊時代の石積みの特徴を良く表しています。浜松城と良く似た天守台も天竜川から良く見える西の端に築かれています。二俣城の発掘調査は今後も継続して行われ、土塁の城から石垣の城への移行期の城郭として、将来的に国の史跡への登録を目指しているとのことです。

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