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2015年10月23日 (金)

松下屋敷跡へ

昨日の記事に松下屋敷を取り上げましたが、当地の写真がないことに改めて気が付きましたので、散歩を兼ねて行ってみました。松下屋敷については、これまで浜松市による発掘調査が行われ、焼けた瓦などが出土して今川勢による襲撃により頭陀寺城が炎上した記録の内容と一致することが確認されています。

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浜松市による松下嘉平次屋敷跡の石碑。屋敷跡西側にある頭陀寺第一公園にあります。尚、嘉平次は通称で本名は之綱(ゆきつな)ですが、之綱は秀吉と同年齢とされるため、年齢的に実際に秀吉が仕えたのは之綱の父の長則ではないかと考えられます。秀吉の朱印状では松下加兵衛と記され、後に遠州久野城1万6000石の城主に取り立てていますので、松下家での待遇にかなり恩義を感じていたことがうかがえます。

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松下屋敷に関する案内板。松下屋敷が周囲に濠をめぐらし、約3700坪の広さを持っていたとされています。これであれば小さいながら城と言えないこともない規模と言えます。

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現在、屋敷の主要部分は回転すし店の敷地と幹線道路となっていますが、店舗建設前の発掘では駐車場部分から礎石や大量の陶器が発見されました。駐車場の北側に店舗が立っていますが、さる筋から聞いた話では遺構を保存するため店側の配慮で現在のような配置になったとのことです。

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頭陀寺第一公園の北東の一角に土塁跡がわずかに残されています。今年度の発掘で、盛り土部分が土塁であることが確認されました。

以前は旧芳川村が建てた案内板が設置されていたとのことでしたので探してみましたが、見当たりませんでした。何らかの事情によって浜松市によって撤去されたのかも知れません。

日吉丸当時の秀吉が松下家に仕えたことは伝承とされていますが、末端の家臣でありながら朱印状に名前が記されたり、後に大名に取り立てられていることから、実際の出来事と見て間違いないと思われます。

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