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2015年10月29日 (木)

家康の「しかみ像」に新説

三方原の合戦で信玄に大敗し浜松城に逃げ帰った徳川家康が、後の戒めとするために己の無様な姿を記録させたとされるのが有名な「しかみ像」ですが、この通説に真っ向から異論が唱えられていたそうです。

Photo

こちらが「しかみ像」です。現在は名古屋にある徳川美術館に所蔵されています。以下10月24日付のYOMIURI ONLINE 中部発からの引用です。

今年8月に同美術館で開かれた講演会で、学芸員の原史彦さんがこの常識を覆す新説を公表した。

 それは、三方原の戦い後に家康が自ら描かせたものではない――という衝撃的な説である。

 原さんが由緒を改めて確認したところ、この画像は、江戸時代中期の尾張徳川家9代の徳川宗睦むねちか(1733~99年)の嫡男の妻で紀伊徳川家から嫁いだ従姫よりひめが1780年に持ってきた嫁入り道具だったことが判明したのだ。

 家康の画像とは伝わっていたため、従姫の死後の1805年に、尾張家が家康ゆかりの物を収める「御清御長持」(おきよめおんながもち)に加えられた。ただ、江戸時代にはこの画像が三方原と結びつけられてはいなかった。

 三方原の敗戦の図と初めて紹介されたのは、1935年(昭和10年)に、徳川美術館が開館した翌年1月のこと。その際は、家康が自ら描かせたのではなく、尾張家初代の徳川義直よしなおが父親の苦難を忘れないように描かせたとされていた。この話を地元新聞での対談で語ったのが、美術館を創設した19代の徳川義親氏(1886~1976年)だったため、その後、三方ヶ原戦役画像として定着。72年に刊行された収蔵品目録で、義直ではなく家康が自ら描かせ、生涯座右を離さなかったと記されたことで、現在の「しかみ像」のイメージが固まったという。

 正直驚くべき話です。生涯座右を離さなかったのであれば、遺品が多く収蔵されている久能山東照宮ではなく、尾張家に伝わっていることから原氏の調査の方が正しいように思われます。
また、常識的に考えれば、確かに生きるか死ぬかの戦の最中に、のんびりと絵師に肖像画を描かせるのはあり得ないことです。ただ、その場ではスケッチを描かせて後日仕上げることはありそうです。関ヶ原の戦いも屏風絵などに描かれていますが、どれも江戸時代に入ってからの制作です。果たしてどこまで正確なのか疑問に思わないでもありませんが、参考になる資料や図、絵画を集大成したものなのかも知れません。

現在のことですから放射性炭素による年代測定法を使い「しかみ像」が描かれた紙の製作年代を調べれば、いつ頃描かれたのかは、ある程度絞り込むことが可能です。もしかしたら、既に行われているのかも知れませんが、果たして真相はどうなのか、本当のところが気になります。

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