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2015年11月15日 (日)

浜松城天守は何故消えた?

またまた浜松城の話題です。小田原攻めで北条氏を下した秀吉は、戦功と言う名目で家康を江戸に移し、家康の所領だった東海道の主要な城に配下の武将を置いて、それまでの土塁中心の城を堅固な石垣造りの城へと変貌させました。これは家康が大阪に向かうことを徹底的に阻止することが目的でした。今に残る城の多くが江戸時代に入ってから築かれた優美な姿の城ですが、秀吉の時代の城は戦に備えた実戦を意識したものでした。

この対家康の城は東から駿府城に14万石で中村一氏(かずうじ)、掛川城に5万9千石で山内一豊、浜松城に12万石で堀尾吉晴、吉田城(豊橋)に後に姫路城主となる池田輝政を15万2千石で、岡崎城に5万7400石で田中吉政を配しましたが、まさに鉄壁の守りと言うべきものでした。更に甲府城にも加藤光泰(みつやす)を24万石で配し、石垣の巨大な城造りをさせ、家康包囲網を作り上げました。

このようにして、豊臣の力により、それまで東海地方には見られなかった石垣を持った城が各地に誕生することになりました。この内掛川城、浜松城、甲府城には天守台が築かれました。駿府城にも築かれていた可能性がありますが、その後天下普請によって改修されたため、詳しいことは判っていません。掛川城の天守は慶長9年(1604)の地震で倒壊したことが記録に残っており、その後再建されて幕末まで残っていたことも判っています。甲府城については、朝鮮出兵中の1593年に光泰が病死したこともあり、天守そのものが建てられたかどうかは不明です。

吉田城には天守は築かれず、鉄櫓が天守の代わりとされました。岡崎城は大坂夏の陣が終わり、再び徳川方の城となった1617年に天守が築かれています。秀吉の時代には浜松以西の城に天守の重要性は薄かったのかも知れません。

Photo

浜松城天守と天守門石垣(天守門復元前)です。

さて浜松城の天守ですが、江戸時代に描かれた絵図には天守が存在せず、その存在自体を疑う人もいましたが、天守台の地下から瓦が発見されており天守が築かれたことは間違いありません。では何故江戸時代初期までに消えてしまったのでしょう。
徳川の権力が確立されたことにより、家康の意向が働いたのではないかと見る人がいますが、これは間違いだと思います。何故なら、掛川城の天守は地震で倒壊しながら、その後再建されていることからで、浜松城の天守だけが再建されないことが説明できません。

Photo_2

浜松城八幡台、浜松城内の最高地点です。ここにも何らかの櫓が建てられていたのではないかと考えられます。

徳川政権が確立された後は武家諸法度により、特に外様大名の城の修理が厳しく制限され、天守の再建はまず許可されなくなっていましたが、浜松城は幕府直轄に近い城でしたので、このような理由も考えられません。で、吉晴が出雲に転封となった後の城主について調べてみました。すると吉晴の後を5万石で継いだ松平忠頼が1609年に縁戚の水野忠胤(ただたね)の江戸屋敷で家臣の久米佐平次に切り殺され、武家にあるまじき不始末として改易されていたことがわかりました。

想像ですが、吉晴が12万石で築いた壮大な天守が5万石の大名には過分であったところに城主が他家の屋敷内で殺されてしまったこと、次の領主となった水野忠頼がわずか2万5千石だったことから自ら天守を取り壊したのではないかと考えますがいかがでしょうか。

その後は武家諸法度によって天守の新築は許されず、天守の代用になる御三階櫓も築かれていないことから天守門が天守の代用を果たしたものと考えられます。

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コメント

浜松城の天守が無くなった原因は、延宝7~8年頃の大風(台風)で天守が倒壊しました。
記録によりますと、東海・関東大水害によるとあります。この時、浜松城・掛川城・江戸城等が被害に逢ったということです。ちなみに、この時の浜松城城主は青山資次(10代)です。
青山は、東京の青山で、江戸時代家康から土地を貰いそこに屋敷を建てたのが、現東京の青山の地名の起こりです。
もう一つ、東京の浜松町は、家康と一緒に江戸に行きその町の名主を務めたから(浜松出身)といわれる。

投稿: 浜松城の案内人 | 2015年11月20日 (金) 23時59分

浜松城の案内人さん、コメントありがとうございます。

浜松に生まれながら、あまりにも浜松城について知らな過ぎたので、最近になって色々調べていますが謎が多すぎて困っています。現認できる資料では青山家御家中配列図の天守曲輪に天守が描かれていませんので、遅くても1679年には天守は消失していたと考えられますが、もし1678年時点で存在していたならば、絵図に記載されていてもいいのかなあとも思います。

さて、お寄せ頂いた情報ですが10代の城主「青山資次」とありますが、「青山資次」なる人物は存在しませんので、年代的に「青山忠雄」(1679~1685年)の間違いではないでしょうか。

また延宝8年(1681年)の東海・江戸大水害で倒壊したとのことですが、防災新聞社HPで横須賀城や江戸城の被害は確認できましたが、浜松城関連の記載は確認できませんでした。横須賀では強風よりも高潮の被害が大きかったようです。お手数ですが、浜松城天守の倒壊についての出典を教えていただけると幸いです。

投稿: 雨辰 | 2015年11月21日 (土) 09時13分

ミスプリンとしてしまいました。
浜松城10代城主は青山宗俊です。宗俊は1年で死亡してしまいました。従って延宝8年の東海
・関東大水害時の浜松城城主は11代青山忠雄です。
出典は浜松市史二 第一節 浜松城築城 災害の記録
池田正一郎著「日本災変通志」
荒川秀俊ほか編「日本高史料」より引用
延宝8年閏8月6日(1680年9月28日)台風、東海道筋、江戸、強風と高潮に襲われる。その時に浜松城が倒壊したと思われる。
防災関連サイトより引用させて貰いました。

投稿: 浜松城の案内人 | 2018年1月23日 (火) 12時50分

浜松城の案内人さん、コメントありがとうございます。

出典は浜松市史二 第一節 浜松城築城 災害の記録と言うことで確認しましたが、本丸・二の丸・三の丸の櫓塀が破損とあり、天守に関する直接の言及はされていません。ただ1680年とすると吉晴が城主となって90年後となります。一般に天守の寿命は100年前後で、大掛かりな修理が必要とされていますので、この時に大破したことは十分考えられると思います。いかに災害とは言え、天守の被災は好ましいことではありませんので、そのまま歴史に埋もれた可能性は高いと考えられます。

投稿: 雨辰 | 2018年1月24日 (水) 08時54分

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