諏訪原城探訪 その3
武田流築城術で築かれたと言われている諏訪原城ですが、発掘調査の結果、想像以上に徳川の手が入っていたことが明らかになったようです。家忠日記の記述などから、諏訪原城が徳川の手に落ちてから幾たびか改修を行なっていることは記録に残っていましたが、今日残っている遺構の多くに徳川の時代の痕跡が残っているようです。
今年前半、各地の城跡を見て回りましたが、財政基盤の弱い自治体では、城跡の保存整備が思うにまかせないところがあるようでした。諏訪原城の場合はどうなのか、ちょっと気になるところです。
諏訪原城の本曲輪東側から見た島田市街。当時は大井川が台地末端近くを流れ、天然の要害となっていたようです。
本曲輪南側の土塁です。城内の平坦部の樹木はかなり伐採されていますが、周辺部はまだ木々が生い茂っていて城郭の輪郭が判りにくくなっています。
内堀に残っている「カンカン井戸」です。籠城時の非常用として使われたのか、この下方に水の手曲輪があり、普段はそこが水源となっていたようです。
水の手曲輪への分岐。下草が刈られておらず、草の実が付くのがいやなので訪問は断念しました。草が枯れる時期に再訪したいと思います。
二の曲輪の北側から南側を見て。中央部分に一段高くなっている所が中仕切り部分です。写真手前右側付近から薬医門の礎石が見つかっています。門の外側は二の曲輪中馬出に続いています。
その4に続きます。
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