諏訪原城探訪 その1
徳川家康についての記述に諏訪原城が良く出てきます。諏訪原城は武田勝頼が遠州攻略のため、牧之原台地の末端に築いた城ですが、攻防の末に築城から2年で家康の手に落ちます。その後は逆に、武田の手に落ちた田中城攻略や高天神城奪還のために使用されました。いつでも行けるからと、これまで訪れたことがなかったのですが、近年武田流の馬出(うまだし)が注目されるようになったので、馬出が残る城として知られる諏訪原城に意を決して行って来ました。
諏訪原城は島田市文化課が生い茂った樹木の伐採や遺構の発掘調査を行なっています。近年の発掘で城内の3ヶ所で門の礎石が発見され、形状から薬医門が築かれていたことが判ったようです。その内の一つ、二の曲輪北馬出の薬医門が文化庁によって復元が認められ、2016年に復元工事が行われることになっています。そのための準備工事なのか、一部区域に立ち入り制限が行われていました。
中央のくぼんだ所が大手南外堀です。その奥の木が生い茂っている所が二の曲輪大手馬出です。大手南外堀右側に通路が造成中でした。
工事の邪魔にならないように見学路を通って二の曲輪大手馬出に出ました。初めて見る馬出と三日月堀でしたが、思ったよりも浅い堀でした。後で判りましたが、駐車場東側の旧東海道から直接この場所に入れるようになっています。
二の曲輪東内馬出から見た二の曲輪北馬出。馬出と言うのは外側に張り出した平坦部を三日月型の堀が囲む陣地ですが、全体像が判りますでしょうか?城内に入るのには中央の細い土橋を通らなければなりませんので、防御が大変し易くなります。
二の曲輪西側の防衛ラインとなる外堀です。大変深い素掘りの堀ですが、当時は水を張った水堀だったとされています。外側の斜面は直角に近いのに対し、内側は緩い斜面となっています。これは崩壊防止だけでなく、堀に入った敵を狙い易くする工夫だったのではないかと思われます。
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