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2016年11月 9日 (水)

家康は城攻め名人だった

大河ドラマ真田丸も大詰めを迎えていますが、歴史は冷徹で大坂の陣は徳川が勝利し、大坂城は炎上して豊臣家は滅亡してしまいます。家康と言えば、「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」で待ちの姿勢のイメージがありますが、冬の陣では真田丸に立てこもって奮戦する豊臣方をあざ笑うかのように、守りが固いとされた北側の淀川の中州、備前島から多数の大砲を打ち込む荒業で講和に持ち込み、堅固な堀を埋めてしまいました。

実は家康は多くの城攻めを経験した城攻め名人だったのです。家康の初陣は今川義元の人質だった16歳での寺部攻め参戦です。この時は寺部城は落としていませんが、その城下を焼き払い義元から武勲に対する褒賞を得ています。

実際に城を攻めたのは今川氏の支配を脱し、名実ともに岡崎城の城主となってからで、1565年(23歳)に今川方だった三河の田原城、吉田城を攻めて落城させています。こうして三河での足元を固めた家康は1568年(26歳)に、その後も今川氏が支配を続けた遠江に侵攻、頭陀寺城・二俣城・曳馬城を攻略して遠江支配の第一歩を築くことに成功します。

翌1569年、浜名湖北部の堀川城に反旗を翻して立てこもった将兵・農民約1700名を攻め、1日の戦で1000名を討ち取り、生き残った700名を全員打ち首にして曝すると言う大変凄惨な仕打ちをしています。これを反省したのか、その年に開城させた掛川城攻めでは今川家最後の当主であった氏真と城主の朝比奈 泰朝の小田原城への退去を認めています。

その後も長篠城・二俣城・諏訪原城・小山城・高天神城・田中城の諸城を攻略し、三河・遠江・駿河の三国の支配を達成しました。こうした幾多の城攻めの経験から城攻めの名手と目され、小田原征伐では前哨戦となった中山城攻めでも中心的な役割を任されています。

こうして多くの城攻めを経験した家康にとって、最後に残った大坂城攻めはこれまでの集大成として万全を期して策を練りに練ったことは容易に想像できます。更に関ケ原の戦いの前哨戦となった西軍による大津城攻めから大筒の有効性を読み取り、大坂城攻めに活用したのではないかと推測します。

無謀にも信玄に挑んだ結果、完膚なきまで叩きのめされ、生命の危機に陥った三方原の戦い以降、家康はいかに相手に対して無理をせずに優位に戦うかを考え、実行して大大名に成り上がりました。信長の死後、秀吉との確執でも無理はせず、秀吉の死去を待って天下人となったのは、若き日の苦い経験が根底にあったのではないかと思います。

Photo

家康が築き、天下人への基礎を作った浜松城。現在残る石垣は、2代目城主となった秀吉配下の武将堀尾吉晴が築いたものです。

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