名古屋城に初登城 その3
関ヶ原の戦いの後、大阪方への防禦の城として徳川家康の命によって築かれた名古屋城は、大小天守と櫓、門、御殿などが明治期まで現存し、国宝に指定されましたが、昭和20年5月14日の空襲によってほとんどの建物を焼失してしまいました。文化財としての名古屋城は戦争遂行に何の寄与もしない存在であったのに、敢えて空襲目標として爆撃した米国の野蛮な行為について、世界的な文化財に対する犯罪行為として強く非難します。
名古屋城天守には焼失前の貴重な写真が展示されています。今回はカメラに収めた展示されていた写真を中心に紹介したいと思います。
名古屋城の本丸から御深井丸にかけての航空写真です。本丸東門に焼失前の櫓門の東一之門があるのが判ります。
表二之門付近から見た大天守です。表二之門の左右に多門櫓が建っていたことが判ります。
焼失前の大天守1階の内部写真です。名古屋城は戦前に国宝に指定されていたことから、精密な測量が行われて内部構造の詳細な図面やこのような写真が豊富に残されており、木造復元を可能としました。
貴重な文化遺産であるにも関わらず、米軍の焼夷弾攻撃を受け、紅蓮の炎に包まれて炎上する名古屋城大天守です。
大小の天守が焼け落ち、石垣のみが残った本丸の写真です。この写真を見る限り、石垣は少しも崩れることなく天に向かって聳えています。
西之丸南側の石垣に残る瓦の破片です。石垣上にあった土塀が焼けた際に落ちた瓦が埋もれたものと思われます。
大天守の石垣の東側と西側から撮った写真の比較です。上が西側、下が東側から撮ったものです。上の写真の左側の石垣が大天守、右側の写真が小天守です。
大天守は炎上した際に、西側の堀に崩れ落ちて石垣を焦がしたそうです。今回、空襲によって大天守の石垣がどのような損傷を受けたのか調べようとしましたが、確たる記録は発見できませんでした。しかしながら、小天守の石垣と見比べると、明らかに大天守西側の石垣には違和感を感じます。下の東側の写真と比べても石の状態が違っているように感じました。鉄筋コンクリートで再建する時に、焼けた石材を新しい石材で修復したのではないかと思われます。
御深井丸東端にある天守の礎石の現物です。鉄筋コンクリートで天守を再建する時に石垣上からこの場所に移設され、展示されているもので、実際の天守の礎石を初めて見ることができました。
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