浜松城天守曲輪で発掘調査
現在浜松城では浜松市文化財課によって天守曲輪(てんしゅくるわ)の発掘調査が1月9日から2月上旬にかけて行われています。今回の調査の目的は土塁の構造を明らかにすることです。
浜松城にかつて三層以上の勇壮な天守が築かれたことは間違いありませんが、その実像や何時頃にどうして消失したのかは未だに何も明らかになっていません。このように浜松城には多くの未解明の問題がたくさん残されていますが、その一つが天守曲輪の機能です。
浜松城は梯郭式(ていかくしき)の平山城と分類されており、最上部に天守曲輪が築かれ、その東下に本丸、二ノ丸、三ノ丸がありました。通常、城の最深部、最上部に本丸があるのですが、浜松城の場合は天守曲輪の下にあるという特異構造で、他に例を見ない特殊な構造です。
何故、本丸が一番上部に築かれなかったのか、それは浜松城が三方原台地の末端に築かれたため、城の北側からの攻撃に弱点を持っていたからではないかと考えます。このため、家康時代には北側に作佐曲輪(さくざくるわ)、天守台の外側に西端城を築いて守りを固めていますが、高低差のある東側の守りに比べると脆弱であることは明白です。ここで、天守曲輪の目的ですが、ここが最高点であることから物見の場所として最適です。また、北側から攻めて来る敵に対しても一段高い場所から攻撃を加えることが可能となります。
つまり、城攻に遭った場合の最後の砦ではなく、当初は本丸を守る最強の防護陣地として考えられたのではないかと推測します。このため土塁や武器庫などが築かれたのではないかと考えられます。浜松城は築城初期には信玄の遠州攻略の危機がありましたが、やがて今川氏、次いで武田氏を打ち破ったことによって、周囲に敵なしの状態となって次第に権力を象徴する場所へと変貌を遂げたのではないかと考えます。
天守曲輪北側の石垣。屏風折りの手法で築かれており、当時の最先端の技術が用いられています。
天守門復元工事で立ち入り禁止となった時の天守曲輪。このように天守石垣から南側は更地となっています。
2月10日に今回の調査結果について現地説明会が予定されていますが、これまで判らなかった多くのことが解明されることを期待しています。
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