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2018年3月24日 (土)

浜松市が堀尾吉晴公共同研究会にオブザーバー参加

浜松市は、徳川家康が築いた浜松城を引き継ぎ、石垣の城に作り替えた堀尾吉晴の生涯を調べる自治体の研究会「堀尾吉晴公共同研究会」に2018年度からオブザーバーとして参加することを明らかにしました。

堀尾吉晴は豊臣秀吉の重臣で近江佐和山城の城主でしたが、小田原攻めで北条氏が滅亡し、徳川家康が関東に移封となった後、秀吉の命により家康の居城だった浜松城の城主となりました。それまでの浜松城は土塁中心の防備の城でしたが、当時の最先端技術だった石垣を築き、豊臣政権の威光を天下に知らしめる役割を果たしました。

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天守門復元前の浜松城。門の両側の石垣が見事です。

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鉄筋コンクリートで再建された浜松城天守。しかし、石垣全体の2/3ほどの大きさでしかありません。かつて、ここには後に吉晴が築いた松江城と同様の天守があったと考えるのが自然です。ちなみに浜松城天守の地下には井戸跡が残っていますが、これは大変珍しいものですが、同様に松江城の天守内にも井戸が築かれています。

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松江城を参考に、石垣に合わせて堀尾時代の天守を想像してみました。最近になって現在の石垣より2.5m地下に当時の地面があったことが判りましたので、石垣の下に下駄を履かせました。すると、石垣と天守のバランスが大変良くなりました。

吉晴と同時期に掛川城を石垣の城として作り替えた同じく秀吉配下の山内一豊は、後に高知に移った時に掛川城を参考に高知城天守を築きました。同様に吉晴も浜松城天守を元に松江城天守を築いたとしても、何ら不思議はありません。

浜松市文化財課の太田課長は「堀尾氏は浜松城にとって重要な役割を果たした。研究会に全面的に協力し、情報交換していきたい」と語っていますが、交流によって堀尾時代の浜松城の姿が少しでも明らかになり、天守復元につながることを期待しています。

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