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2018年4月 4日 (水)

浜松城に未知の櫓か

浜松市は3日、天守近くで多数の屋根瓦が発見されたことから、大規模な櫓があったとみられると発表しました。櫓は多層構造の小天守の可能性があり、瓦の特徴から堀尾吉晴の時代に築かれたと推定できるとしています。

これはちょっと驚きのニュースです。浜松市は今年の1月から3月にかけて天守南側の天守曲輪を発掘し、地中から土塁を守る石垣が発見されましたが、その時南東部から総重量約600Kgの瓦が出土していました。この中には屋根瓦も含まれていましたので、この瓦は江戸時代に入ってから豊臣時代に建てられた天守を壊した時に捨てられ、その上に土盛りをして世間から隔絶したのだと想像していましたが、まさか櫓が存在したとは想像できませんでした。

ただ、大阪城も夏の陣で落城した後は地下に埋められ、その上に新たに徳川の城として現在残っている石垣で再建されましたので、この櫓も無かったものとして地中に埋められたとしても不思議はありません。

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1月に撮影した発掘の様子です。

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発見された大量の瓦です。平瓦に丸瓦が混じっているのが判ります。

P1270037r18

鯱瓦の一部と見られる破片です。

Photo

浜松城公園内に設置されていた説明地図に櫓位置を記入してみました。浜松城の絵図はいずれも江戸時代に描かれたものばかりなので、当然それ以前に消失した櫓の存在は記入されていません。黄色が小天守の場合の推定位置、赤色が隅櫓の場合の推定位置ですが、いずれも瓦の出土場所に隣接する位置です。

今回浜松市が出土瓦を理由に櫓が存在したことを公表したのには、櫓の存在を裏付ける他の証拠があるのではないかと推測されます。例えば、石垣の遺構や基礎の存在の証拠となる土木工事跡ですが、これらは発掘をしなくても地中レーダーなどでもある程度存在を確認することが可能ですが、位置を特定するためには新たな発掘調査が不可欠です。

ただ隅櫓や小天守だったとしても、では天守の瓦は何処に行ったのかと言った疑問が残ります。豊臣時代の遺構を壊すのなら真っ先に破却されるのは、その象徴たる天守であって隅櫓とは考えられませんし、小天守を壊すのならその前に天守を壊すのが当然だからです。

浜松城の謎は深まるばかりです。

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