老舗菓子舗の創業は何故文化年間か?
昨日の続きです。京都の八ッ橋の老舗「井筒八つ橋」の創業が文化2年(1805年)、静岡の安倍川餅の石部屋(せきべや)の創業が文化元年(1804年)といずれも1800年代の初頭となっています。これには何か理由があるのではないかと調べてみました。
かつてお菓子の原料である砂糖は貴重品だったとの話を思い出し、その歴史を調べてみました。すると、1623年に沖縄に中国から黒糖の製法が伝わるまでは全て輸入によって賄われていたことが判りました。これでは大変高価になっても不思議ではなく、庶民には高値の華であったことが、容易に想像されます。そのような中で我が国最初の練り羊羹が1589年、京都伏見の「鶴屋」によって開発され、秀吉に献上されたと言うことです。この時、甘味料として使われたのは砂糖ではなく、甘葛(あまづら)と呼ばれる蔓から抽出されたものでした。
羊羹については有名な「虎屋」は室町時代後期に京都で創業したとされ、1635年の注文書には羊羹が載っていることから、この頃既に羊羹を製造していたものと見られますが、鶴屋が開発したのと同様の製法だったのではないかと思われます。また、静岡市清水区の「追分羊羹」も寛文年間(1661~1673年)の創業とされています。
江戸時代に入り、経済が発展して庶民の生活も向上する中で砂糖の需要も増え、8代将軍吉宗は享保の改革(1716~)でサトウキビの栽培を奨励しました。したがって1716年以降に黒砂糖の生産が増大したものと思われます。あんこを使用した伊勢名物の赤福餅は、文献に初めて登場した1707年(宝永4年)を創業年としていますが、当初は砂糖が貴重品だったので今とは違い塩味の餡を使っていました。その後黒砂糖の生産が増えて価格もこなれて来たからでしょう、次第に黒砂糖に切り替えられたそうです。
サトウキビは主に沖縄や奄美地方で栽培されていましたが、やがて四国でも栽培されるようになり、更に北限とされる静岡県の西部、横須賀でも栽培されるようになりました。四国の阿波、讃岐では1700年代末までに、黒糖を精製して白い砂糖である「和三盆」(わさんぼん)の製造に成功し、更には横須賀にも伝わり、「横須賀しろ」として特産品になりました。ちなみに讃岐の和三盆の老舗である「三谷製糖羽根さぬき本舗」の創業は文化元年(1804年)です。
1800年前後に和三盆の製造が開始されたことから和菓子の製造に大きな影響を与え、多くの菓子舗が創業したと考えるのが自然です。勿論、「聖護院八ッ橋総本家」が輸入の砂糖や、甘葛を使って八つ橋を製造していたことも否定はできませんが、それを証明するものが一切残っていない以上、事実と認められないのは仕方ありません。
今日では肥満の元凶として、あまり良い印象を持たれない砂糖ですが、歴史的には様々なドラマを繰り広げていたことが判り、大変興味深く思いました。
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