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2018年7月22日 (日)

浜松城石垣の謎

浜松城については、これまで幾度となく当ブログで取り上げて来ましたが、日々新たな疑問が沸き起こるので、いつも無い頭を捻っています。今日は何故家康は浜松城に石垣を築かなかったのかについて考えてみます。

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復元前の天守門跡から見た浜松城天守。

今日では、浜松城の石垣は家康の後に城主となった堀尾吉晴によって築かれたと言うのが定説になっていますが、浜松城の石垣は野面積みと言うこともあって少し前まではこの石垣は家康時代に築かれたと考えられていました。

しかし、遠州・三河地方に本格的な石垣を持った城が築かれたのは、家康が今川館の跡に駿府城の築城を始めた1585年以降で、秀吉の命により堀尾吉晴や山内一豊が浜松城や掛川城に石垣を築いたのは更にその後の1590年に入ってからでした。その間、家康は信長の安土城その他の城を見ていますので、石垣造りの城についての知識は持っていた筈です。遅くても本能寺の変(1582年)の直前には、信長に招かれて安土城を訪ねています。

更に驚くべきことに、家康の配下だった奥三河の鈴木重愛(しげのり)の居城だった市場城(豊田市市場町)は家康が駿府城を築く前の1582年頃に石垣を持った城に改修されています。

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市場城の櫓跡の石垣(手前側)と本丸下の石垣です。

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二ノ丸北側の石垣。石垣の角は算木積みの手法が取り入れられており、最新の技術が用いられていたことが覗えます。今日見られる石垣の多くは、関ヶ原の戦い以降に築かれたものが多く、それ以前にこのような大名ではない武将の城が石垣が築かれたのは大変珍しいものです。このように山間の城としては珍しい石垣を持った市場城でしたが、家康の関東移封に伴う関東への転出を拒んだために改易され、1592年に廃城となってしまいました。

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弘前城に残る土塁です。石垣以前はこうした土塁で城の守りを固めるのが一般的な築城のやり方でした。家康が築き、拡張した浜松城もこうした土塁で築かれており、北条が最後まで立て籠もった小田原城も当時は土塁の城でした。

重愛が石垣で城を改修したことは当然家康も承知していた筈ですし、何より1582年の武田氏滅亡の後は、三河、遠江、駿河、甲斐、信濃の五国、132万石を領有する大大名となりましたので、その時点で、浜松城を石垣造りの城に改修しても良かった筈です。しかし、実際には拡張しましたが、石垣を築くことはありませんでした。

これは推測ですが、甲斐・駿河を領有した時点で家康の心は駿府に向いており、浜松城は駿府城完成までの繋ぎの城となってしまっていたのではないでしょうか。秀吉とは小牧長久手の戦いで戦火を交えたこともあり、最終的には秀吉によって江戸に移封されますが、家康の本心は駿府を居城として五国を統治する構想を描いていたのではないかと思います。なので、家康が駿府城に入り、統治が軌道に乗っていれば、その段階で浜松城の石垣化が行われたのではないかと思いますが、駿府城の天守が完成する間もなく、江戸に移ることになってしまいましたので、家康による浜松城の石垣化は幻となってしまいました。

晩年、将軍職を秀忠に譲って駿府に隠居しながら、国家普請で巨大な駿府城を築かせたのも、この時の無念の思いがあったからではないかと考えます。

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