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2018年8月19日 (日)

浜松城天守曲輪南東櫓を想像

昨日訪問した浜松城の天守曲輪に櫓が存在したことについては、江戸時代に作成された絵図には載っていないことからその存在は明らかになっていません。しかし、絵図の作成時点に櫓が存在していなかったとしても、櫓が存在した可能性を否定することはできません。それはそれ以前に櫓が存在しても、途中で壊されていれば、後世には残らないからです。従って、今回の発掘で存在した物証が見つかることが望まれますが、現時点ではその成否は判りません。

Photo

天守曲輪の実測図です。(出典:浜松市文化遺産デジタルアーカイブより)

左下の赤い部分が櫓の推定位置です。なぜここが怪しいかと言えば、この部分の石垣が外側に出っ張っているからで、他の城ではここに櫓が築かれます。では他の城ではどんな建てられ方をしたのか見てみます。

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山形城の坤櫓(ひつじさるやぐら)の発掘現場です。石垣が土中に埋もれていました。なぜ埋もれたかと言えば、櫓の建て替えの際、古い瓦を周囲に落とし、その上に土を被せること何度も行ったためです。

では、浜松から松江に移った堀尾吉晴が築いた松江城ではどうでしょうか。

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松江城の南櫓です。南櫓は外堀の石垣に面して建てられていますが、土塀の内側には櫓のための石垣はなく、周囲は三和土(たたき)になって礎石が置かれています。

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こちらは熊本城源之進櫓ですが、こちらも内側に高い石垣はありません。

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こちらは清州城天守を移築したと言われる名古屋城の西北隅櫓です。地面より3段ほどの石垣が築かれています。

浜松城の場合、当時の天守曲輪の地面は現在よりも2.5mほど低い位置だったことが前回のの発掘で判っています。その上で、推定位置が台地状に盛り土されていれば石垣は不要ですが、天守門内側が石垣になっていたことを見れば、山形城のように石垣が積まれていた可能性が高いように思われます。

現時点で見つかっていないのは、江戸時代に入って内側が崩され、その後廃城となって茶屋などが建てられた際に、大きく削られてしまったのではないかと思われます。従って、当時の地面まで掘り下げれば、何らかの痕跡がある筈ですし、もし何も見つからなければ、残念ながらその存在は否定されることになります。但し、実測図右上の水色の部分にも出隅の形が見て取れます。こちらにも櫓の存在が推定されますので、将来的に発掘調査の対象に加えられるのではないかと思います。

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