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2018年10月26日 (金)

駿河、遠江、三河の諸将は何故秀吉の死後に家康に付いたのか?

先日の駿府城の話題の際にも触れましたが、1590年に北条氏を滅ぼした秀吉は、家康を駿河から江戸に移し、秀次を清州城に配した上で、秀次配下の武将を東海道沿いの各城に配置して家康が大阪に攻め上がるのを阻止しようと考えました。

駿府城には中村一氏、掛川城には山内一豊、浜松城には堀尾吉晴、吉田城(豊橋には)池田輝政、岡崎城には田中吉政が城主として配され、それまでなかった石垣を備えた堅固な城造りをさせました。

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山内一豊が、今川時代の古城の南方に新たに築いた掛川城です。

このように、家康を封じ込める役割を担った筈の豊臣家の精鋭の武将達ですが、その目論見に反して10年後に起こった関ヶ原の戦いでは全員が徳川方に付いてしまいました。関ケ原の戦いは徳川家康と、主として豊臣の重臣の武将達との衝突でしたので、本来なら西軍に組みしても良さそうなのに、全員が家康側に付いたことが不思議でなりません。そこで、何故なのかについて考えてみました。

そもそも、秀吉としては小牧・長久手の戦いで苦杯を飲まされた家康を関東に移すことで、容易に畿内に攻め上がれない態勢を作った筈ですが、わずか2年後には文禄の役を起こし、朝鮮出兵のために家康を九州の名護屋城に参陣させます。

この時家康は250万石の大名として1万5000人の軍勢で江戸から九州まで行軍しましたが、当然駿河から岡崎までの領内を通過することになりました。東海道筋で、この時点で最も石高が多かったのは吉田城の輝元で15万石ですが、手勢は4000人ほどと考えられますから家康の軍勢はさぞ脅威に感じたのではないかと思われます。ちなみに1万5000人の軍勢とは2列縦隊、1mの間隔で長さが7500mにもなる行列です。

名護屋城には各地の大名・武将が参陣しましたが、家康以上の軍勢を差し向けたのは近場の中国地方を領有していた毛利輝元の3万人です。しかし、はるか遠方の関東からはるばる1万5000人の軍勢を動かす実力は多くの武将の目に留まったものと思われます。

また、家康にしてみれば駿河から尾張は、かつて知ったる土地ですが、大軍を意のままに行軍させることは、関ヶ原の戦い、そして大阪夏・冬の陣のまたとない予行演習となったことでしょう。

そして決定的となったのが、1595年の秀次切腹事件であったろうと考えます。秀吉から謀反の嫌疑をかけられた秀次は、高野山で切腹させられましたが、その前後に家臣や幼少の幼子や妻女まで多数が斬殺される血なまぐさい騒動となりました。東海道筋の武将にしてみれば、自分達の直属の主人家が皆殺しの粛清にあった訳ですから、秀吉への忠誠心が冷めきってしまうのも人情として十分理解できます。そして、その騒動にあって家康が、一部の者の助命嘆願を行ったことで、気持ちが徳川に動いたことは充分考えられます。

そして死期を悟った秀吉は、あれほどその権勢を恐れた家康を豊臣家を補佐する五大老の一人に任命したのですから、秀吉の死後は家康に従おうと考えたことは無理からぬことと考えます。1598年9月18日に秀吉は61歳の生涯を終えますが、その時点で中村・山内・堀尾・池田・田中の心中は既に決まっていたのではないかと思います。

関ケ原の戦いで西軍の総大将となった毛利輝元は、江戸を発った家康を堅固な浜松城で迎え撃つ構想を持っていたと言われていますが、東進が間に合わず、実現しませんでした。一方、東軍の総大将だった秀忠は、中山道から大阪に向かうルートを取りましたが、上田城で真田親子に苦しめられ、関ヶ原の戦いに間に合いませんでした。これこそが、秀吉が望んだ成果でしたが、東海道筋では自らの行いによって全く役に立たなかったことは皮肉です。

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天守門復元前の浜松城天守。

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