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2018年10月17日 (水)

駿府城で豊臣時代の天守台が出土

駿府城は、今川氏の居館であった今川館の跡に家康が築いたものですが、北条氏の滅亡後に江戸に転封となり、豊臣の家臣の中村一氏が14万石で入城しました。この時期、同じように掛川城には5万9千石で山内一豊、浜松城には12万石で堀尾吉晴、豊橋の吉田城には15万2千石で後に姫路城を築いた池田輝政が入城して石造りの城を築きました。

中村時代の駿府城も、浜松城同様に当然当時の最先端の技術で改修が行われたものと考えられますが、その後将軍を退いた家康が隠居所として新たに天下普請で城を築いた際に跡形もなく消されてしまいました。ところが、明治の廃条令で取り壊されてしまった天守台の発掘調査の中で、新たに中村時代の天守台の石垣が発見されたと16日になって静岡市が発表しました。

発表によれば、天守台は野面積みで南北37m、東西33mの大きさで、周囲から金箔瓦の破片330個が発見されました。金箔瓦は権力者が権威を誇示する目的で用いたもので、急速に勢力を拡大しつつあった家康を上回る当時の豊臣家の権勢を駿府の領民に見せつける意味があったのではないかと考えます。

今回の中村時代の天守台の存在は、同時に堀尾吉晴が築いた浜松城をもクローズアップさせます。既に何度も取り上げていますが、堀尾が築いた浜松城天守は江戸時代に入ると消えてしまい、その後の絵図にも登場しません。では、何故同時期に豊臣の武将だった一豊が築いた掛川城の天守は残ったのに、浜松城の天守だけが消えてしまったのか?謎は深まるばかりです。

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昭和33年に鉄筋コンクリートで建てられた浜松城の復興天守。この天守を見て家康が築いたものと思ってしまう人がいますが、家康の時代には今の天守台はなかったと考えられています。

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天守台のある天守曲輪では以前の発掘調査で大量の瓦と地下に埋もれた石垣がが見つかっています。秀吉時代の大阪城が埋められ、その上に現在の大阪城が建てられたように、駿府城でもそのような構図が見て取れることから、浜松城の天守曲輪内の建造物が江戸時代に入って取り壊された可能性はかなり高いように思われます。

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