浜松城の幻の櫓
昨日の続きです。浜松城天守曲輪の東南隅に、櫓跡とみられる礎石が発見されたと浜松市が発表しました。江戸時代に作られた絵図から本丸に多門櫓、菱櫓、富士見櫓などがあったことが判っていますが、天守曲輪に櫓の存在は一切記されていませんので、言わば幻の櫓と言う訳です。そして、礎石の位置は天守曲輪の内側に築かれた石垣の外側に位置しています。それは何故なのかについて再度考えてみました。一つには耐震性を考慮した結果ではないかと言うものです。
浜松城天守曲輪の櫓の想像図です。天守曲輪の東南側は城内でも最も石垣が高くなっています。ここに櫓を築いた場合、石垣に負担がかかるので、重量の一部を直接地面で受けることで、石垣の負担を減らす目的です。しかし、このような建て方をされた櫓の例を知りません。
一般的な櫓は石垣の上にこんな具合に建てられています。つまり、石垣の幅を広くすれば済む話です。では、何故そうしなかったのか。それは当初は櫓を築く予定がなかったか、あってももっと規模の小さいものを予定して石垣を築いた後に、計画を変更したのではないかと言うことです。
それならば、足りない床部分の基礎を石垣の外側に設けることで解決が可能です。敢えて石垣上にそれ以上の規模の櫓を築くのには、造営の途中で計画を変更したと見るのが自然のような気がします。
現在の浜松城に勝手に櫓を追加してみましたが、どうでしょうか、より勇壮に見えるようになった気がしませんか。堀尾吉晴と同時期に山内一豊が築いた掛川城には、太鼓櫓が残っています。もしかしたら、一豊への対抗心で急遽櫓を築かせたのかも知れません。
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