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2019年10月20日 (日)

雨中の浜松城発掘調査説明会

昨日は、先日も取り上げました、浜松城二の丸及び三の丸の発掘調査現地説明会がありましたので、午後の部に参加して来ました。天気予報が芳しくない中、午前の部は何とか天気が持ちましたが、午後の部は残念ながら雨の中となってしまいました。

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二の丸跡から見た天守。以前は校舎が建っていた場所なので、このアングルの写真は初めてです。

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二の丸跡で見つかった瓦だまり。二の丸は明治期に民間に払い下げられ、住宅地や工場として使われた後、戦後は小学校として使われましたので、表層部は改変されてしまった所もありますが、このような遺物が残っていることから、今後、多くの遺構発見の期待がかかります。

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三の丸発掘現場全景。多くの柱穴が見つかっており、礎石も確認されていますが、雨水で水没していたのが残念です。

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三の丸西側で発見された直線状に延びた堀。江戸時代に作成された絵図には載っていないことから、引間城時代の遺構と考えられ、浜松城造営の段階で植えたてられたと考えられています。

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三の丸北側で見つかった堀の跡。絵図に古城と記載されている引間城の堀の可能性がありますが、円弧状となっていることから、引間城時代の馬出の可能性もあるのではないかと思われます。引間城は今川氏の配下の城であったため、義元の時代に姻戚関係を結んだ武田氏から、馬出の築城技術を会得していたことも否定できません。

二の丸跡については市有地であるため、今後時間をかけて調査が行われるものと思われますが、三の丸については地元信用金庫の所有地であり、今回の発掘も駐車場に新たに建築物を建てるための緊急調査となっています。しかし、こうして貴重な遺構多数が見つかった以上、これらを保存せずに破壊してしまうことは許されません。遺構の保存について質問したところ、説明担当者の歯切れが大変悪いものとなりました。逆に言えば、言下に否定しなかったことから、水面下で何らかの動きがあることが推測されます。江戸時代300年の基礎を築いた徳川家康が、第一歩を記した貴重な城である浜松城です。その貴重な遺構が、私企業の利益のために破壊されることがないよう、関係者の英断が期待されます。

 

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