石垣が語るもの

GWを利用して東北地方の城めぐりをして来ましたが、その中で気になったことを書いてみます。先の地震では石垣の崩れてしまった城跡もありましたが、山形城はそのようなこともなく静かな情景を楽しむことができました。

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在来工法によって壮麗な姿で復元された山形城東大手門。ところがよく見ると少々気になるところが・・・。

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それはこちらです。石の表面に何やら妙な模様が見られます。良く言われる鏨(たがね)跡とは違うようです。石の向きも横向きが多いような気がします。

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地表付近の石垣です。上の写真に比べて黒ずんで苔生しており、石の向きもまちまちです。勿論妙な模様はなく、落ち着いた感じです。

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山形城西不明門の見事な高石垣。係りの人に聞いたところでは、築城以来後世の人の手は入っていないそうです。山形城は最上義光(よしあき)が築城しましたが、義光は秀吉の朝鮮出兵に動員され、名護屋城に滞在した経験があります。おそらくは、そこで秀吉の築城術や石垣の造営法を詳しく学んだのではないでしょうか。何の下地もなかったら、これだけの石垣は築けなかったと思われます。

東大手門の修復には破壊されてしまった石垣の積み直しが行われましたが、大手門が立派なだけに新たな石垣の積み方が臥龍点睛を欠いているような気がして残念です。

たかが石垣ですが、されど石垣でもあり、実に多くのことを語ってくれているような気がします。


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浜松城再整備に値しない

浜松城址を中心とする浜松城公園の再整備を検討する「セントラル構想」検討会で、建築家の安藤忠雄氏の事務所が作成したプランが中間提言として明らかにされましたが、はっきり言って大反対です。浜松城は織田信長の家臣時代の徳川家康が築城した戦国末期の城ですが、天然の地形を利用して、天守北側は出丸状の作左曲輪(ぐるわ)以外に構築物はありませんでした。

詳細は明らかではありませんが、どうも天守台西側の埋門周辺に半地下式の美術館を設けると言う構想のようですが、これではどんなに景観に配慮したところで戦国の城構えがぶち壊しになってしまいます。浜松城は今後天守門や富士見櫓を再建する予定ですが、こんなことをしてしまっては折角の整備計画も台無しです。戦後復興天守が再建され、浜松城公園のシンボルとして市民に親しまれていますが、この天守も石垣のサイズを無視した歴史に基づかない建て方となっています。個人的には浜松から松江に移った堀尾氏が築城した松江城が最も近い形ではなかったと思います。できればこの形で木造建築で再建してほしいと思っていますが、何にしても歴史を台無しにする「再整備」には絶対反対です。

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現在の浜松城天守。石垣左側に空白のスペースがあるのが分かります。つまり現在の天守は当時のものより小さいと言う事です。

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堀尾氏が築城した二俣城の天守。石垣の形式が浜松城と近似しています。この建物は2009年のイベントで仮建築された一夜城です。

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夢の跡へ

山合いを流れる天竜川が大きく東に屈曲する場所は戦国時代以前は軍事上の要衝でした。そこに築かれた二俣城は徳川と武田勢が存亡をかけた争奪戦を繰り広げた歴史の舞台ですが、江戸時代になって廃城となり荒廃してしまったので構造などの詳しい記録が残っていません。今日は浜松市文化財課の主催で、先月末から行われている発掘調査の現地見学会が開かれたので行って来ました。

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天竜川左岸の堤防上から見た二俣城跡全景です。当時ここは二俣川が天竜川に流れ込む合流点でしたので、二俣城は西側を天竜川、南側を二俣川と言う天然の堀に守られた堅城でした。ただ、天竜川の水位が上昇すると二俣川の水位も上昇してしまい幾度となく洪水に見舞われたので、難工事の末に現在の場所に流路を変えています。

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旧二俣川を挟んで対岸に位置する鳥羽山城の大手門跡です。ここは武田側に落ちた二俣城を奪い返すために家康が築いた陣地跡に築城された城で、本丸跡には庭園が築かれた戦国の城としては大変珍しい城です。

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鳥羽山城大手門へと続く大手道。道幅は6mもあり、この城の格式の高さが判ります。

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試掘によって大手道の北側の斜面から発見された石垣。当時は今よりも1mも下がったところが路面でした。鳥羽山城跡は近代になって公園として活用され、私も小学校時代に遠足で来た覚えがありますが、遊具などがあって当時は城址だとは思いませんでした。それだけ人の手が入ってしまっていたのでしょう。

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二俣城井戸曲輪西端から見た鳥羽山城。二俣城は水源を天竜川の流れに頼っており、この反対側は急峻な崖となっていてそのまま本流の流れに落ち込んでいます。当時はここに櫓を組んで流れから直接水を汲んでいました。

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二俣城天守台。石垣を築いたのは1590年に家康から城を引き継いだ豊臣家家臣で、三中老の一人だった堀尾吉晴です。吉晴は同時期に浜松、二俣城を石造りの城に改築し、鳥羽山城を築城しました。これは駿府、そして江戸へと東の地に移封された家康の反攻に備えた秀吉の命によるものと思われます。浜松城同様にここにも天守を建てるつもりだったのかも知れませんが、現在までに礎石らしきものは見つかっていません。1600年には関ヶ原の合戦の功績によって出雲に移封になっているため、工事半ばで築城が中断されてしまった可能性も考えられます。
また、鳥羽山城の築城に際しては、一旦築いた二俣城の石垣を転用したとの話もあるようなので、もしかしたら家康への傾倒の過程で、信長の命によって自刃して果てた家康の嫡男、信康を慮った可能性も考えられます。

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二俣城は大手門の先に二の丸があり、その北側に本丸があります。二の丸と本丸の間には中仕切り門が築かれており、昨年度発掘調査されていました。中仕切り門は二の丸側から90度曲がった位置に築かれており、その通路上には石段があったのではないかと考えられ、今回の発掘となりました。しかし右手の土塁を含めて後世の手が入ってしまっていることが確認され、今回の発掘では詳細は判りませんでした。また発掘されていない二の丸跡も保存状態が芳しくない事が予感されるということです。

浜松市では今後も発掘を続けて城の全容を明らかにし、現在は鬱蒼とした木々に覆われていますが、地域の了解を得ながら整備を図って行きたいと言うことです。

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