2018年4月12日 (木)

お城巡り その5

これまで訪れたお城の数々を、写真を使って紹介するこのシリーズも今回が最終回です。まだまだ、未訪問のお城が多数あり、北海道や、四国のお城についても将来の課題となっていますので、いつかこれらのお城についても何らかの形で取り上げたいと思います。

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大分県竹田市にある岡城の大手門跡です。岡城は豊後竹田城とも呼ばれていますが、兵庫県にある天空の城の竹田城と紛らわしいので、ここでは岡城とさせて頂きます。どちらも山の上に築かれた山城ですが、偶然とは言え城名と合わせての共通点です。

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岡城と言えば、滝廉太郎の代表作である荒城の月のモデルとなった城として有名で、二ノ丸跡に滝廉太郎の像が設置されています。

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本丸の石垣。400年の時を経てもびくともしない見事な石の芸術品です。岡城は島津勢の度重なる猛攻を凌いで守り抜かれた天下の名城と言えるでしょう。

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熊本地震で大きな損傷を受けた熊本城の天守です。加藤清正が築いた名城でしたが、西南戦争の戦乱の中で焼失してしまい、鉄筋コンクリートで再建されたものです。再び大きく傷つきましたが、復興のシンボルとして修復工事が進められています。

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木造で復元された飯田丸五階櫓です。櫓と呼ばれていますが、並みの城の天守に匹敵する建物です。地震で倒壊寸前になりましたが、かろうじて残った石垣によって倒壊を免れ、修復工事が行われています。

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大天守、小天守と並んで聳え立つ宇土櫓で、高石垣が見事です。こちらも櫓と呼ばれていますが、天守と見間違うばかりの外観を備えています。

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名護屋城大手口から東出丸を望んだところです。名護屋城は、秀吉が朝鮮出兵のために築いた前線基地としてのお城で、半島からの撤兵と共に廃城となりましたが、多くの遺構が残されています。

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壱岐の海を臨む高台に築かれた名護屋城天守跡です。朝鮮を手に入れようとした秀吉の夢の跡ですが、芭蕉の「夏草や兵どもが夢の跡」がこれほどしっくりくる場所はありません。

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ただ、城内を巡っていると、どうしても城としての厳しさが伝わって来ず、どこか手抜きの感が否めません。もしかしたら、秀吉には別の思いがあったのではないかとの考えが浮かんでしまいました。

最初にも述べましたが、まだまだ未訪問のお城がたくさん残っています。いつになるか判りませんが、これらのお城についても紹介したいと思いますので、気長にお待ちくださるよう、お願い申し上げます。

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2018年4月10日 (火)

お城巡り その4

島根県西部地方で大きな地震がありました。土砂崩れや断水などの被害が報道されていますが、幸い死者はなく、今のところ城郭関係の被害も報告されていません。人命が第一ですので、文化財関係の詳細な調査はこれからなのかも知れませんが、軽微であって欲しいものです。

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国宝で世界遺産にも登録された姫路城です。平成の大修理でお色直しをした直後に訪問しましたので大変な混雑でしたが、これだけの景観を持った城は他になく、人気の高いのも当然かも知れません。

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姫路城の素晴らしいのはこうした土塀や、多くの門が残されていることです。特に土塀が現存しているのは、ここ姫路城と備中松山城くらいで大変貴重なものです。

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天守が現存する備中松山城です。手前の櫓や土塀は復元されたものです。備中松山城は山の上に築かれたので、徒歩で登る以外の手段がなく、明治の廃城令の際もそのまま放置されました。その結果天守が残ることができましたが、見事な大手門は朽ち果てて倒壊してしまったと言うことです。この大手門跡の石垣は、NHKの大河ドラマ「真田丸」のオープニングの映像に使われました。

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国の重文に指定されている天守です。内部には城主が暖を取るための囲炉裏が切られている珍しい城です。

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大手門跡を登った所にある国の重文に指定されている江戸時代からの土塀です。但し、現存しているのはくの字になった手前側の部分で、石段に沿った部分は外観を模して復元されたものです。

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天空の城、竹田城です。雲海に浮かぶ城として人気が高まりましたが、トラブルが多発して途中の林道にゲートが設けられ、朝にならないと近づくことができなくなってしまいました。当日は天気が悪く、雲が低く立ち込めて麓からはその姿を見ることができませんでしたが、いざ城に辿り付いたら晴れ上がり、しかも雲海を見ることができたので感激しました。

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石垣と雲が広がる風景はなんとも言えません。雲海はともかく、観光客が多いので、こうした写真が撮れるのは朝一番の限られた瞬間で、本当に幸運でした。

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最近になって築城年月が明らかになり、国宝に指定された松江城天守です。松江城は浜松城の城主だった堀尾吉晴が新たに築いたお城ですが、天守に付け櫓が付属している点や、天守内に井戸を掘っていることなど類似点があり、個人的な意見ですが浜松城を原型としたのではないかと考えています。

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松江城の外堀と高石垣。目を引くのは堀の幅が広く取られていることです。鉄砲を意識したものと思われますが、多くの戦を経験した吉晴が実戦を強く意識していたことが覗えます。

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2018年4月 8日 (日)

お城巡り その3

お城巡りの3回目です。実はこれ以外の城跡も訪問しているのですが、ある程度知名度の高い所に限定させて頂いていますので、ご了承ください。

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福井県坂井市にある丸岡城。戦前は国宝に指定されていたお城ですが、1948年の福井地震で倒壊してしまいました。その後、1955年に使われていた資材を使って修復されました。現存する天守として国の重文に指定されています。屋根に葺かれている瓦は大変珍しい石の瓦です。

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天守の石段は大変急な勾配になっています。天守への入り口がこのように高い位置にあるのは大変珍しいことです。

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こちらも戦前は国宝に指定されていましたが、戦災で焼失してしまい、木造での復元が予定されている名古屋城の天守です。シンボルの鯱鉾が輝いています。

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名古屋城は関ケ原の戦いの後、豊臣勢への備えとして天下普請で築かれました。その際、清州城から多くの建物が移築されたと言われていますが、この西北隅櫓は清州城の小天守だったとされる建物国の重文です。三層三階建ての見事な建物で、さもありなんと思われます。

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女城主直虎が守り抜いた井伊直政の子直継の代に築城された国宝彦根城の天守です。こちらも大阪方への備えの城で、天下普請で築かれたものです。天守は、大津城の天守の最下層以外を移築したと言われています。上下方向が寸足らずに見えることが、それを裏付けているのではないかと思います。

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鐘の丸から本丸への入り口となる天秤櫓に掛かる落とし橋です。いざ有事の場合は、予めこの橋を落としてしまいますので、攻めてはこの石垣を登るしかなくなります。それは攻めてに極めて困難を強いることになりますので、難攻不落の構えと言えるでしょう。

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世界遺産に指定された二条城の東南隅櫓です。現在に残る城郭としての貴重な遺構です。

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二ノ丸御殿への入り口となる唐門です。お城らしからぬ、京都にふさわしい大変きらびやかな建造物です。

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2018年4月 7日 (土)

お城巡り その2

前回の続きです。遠方に足を運ぶのには纏まった休みが必要なので、どうしてもゴールデンウィークを利用することになり、桜のシーンが多くなります。

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白河小峰城です。小峰城は東北大地震災で石垣が崩れ、修復工事を行っていますが、この経験が熊本城の再建に生かされるのではと、期待しています。

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戊辰戦争で新政府軍の砲撃を受け、焼失した御三階櫓を木造で復元したものです。木造天守復元の先駆けとなりました。

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こちらも震災で石垣の一部に被害が出た福島県の二本松城です。ちょうど、桜の満開に出会いました。

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真田丸でお馴染みの真田幸村の父、昌幸が築き、徳川軍の猛攻を二度にわたって退けた、名城の誉れ高い上田城です。当時は石垣の下を千曲川の分流が流れ、尼ヶ淵と呼ばれていました。大阪城と同様、現在の城跡は徳川の手によって改築されたものです。

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城の玄関口である東虎口櫓門の内側です。当時、どこまで石垣が築かれていたかは不明ですが、安土城や秀吉が築いた大阪城の石垣を目にする機会はあったので、昌幸が石垣を築いていたとしても不思議はありません。

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残雪の北アルプスの峰々を望む国宝の松本城。秀吉が天下を治めることになり、配下の石川数正とその子康長によって、それまでの松本城に代わって新たに築かれたものです。

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月見櫓と小天守を従えた松本城天守の威容です。秀吉は石垣造りの城を好みましたので、それを見事に具現化したものです。月見櫓は戦乱の時代の城にふさわしくありませんが、実は江戸時代に入ってから築かれたものです。

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2018年4月 6日 (金)

お城巡り その1

今日は4月6日ですが、語呂合わせで「城の日」だそうです。そこでこれまで撮り貯めた各地のお城の写真を何回かに分けて紹介しようと思います。

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桜の名所であり、国宝でもある弘前城です。あまりに遠いので長い間憧れの地でした。写真の天守に見える建造物は御三階櫓で、現在は石垣修復工事のために本丸内の少し離れた場所に安置されています。

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弘前城の内堀に浮かんだ桜の花筏です。弘前城の桜は一斉に散るのでお堀が花びらで埋め尽くされ、何とも言えない情景を描いています。

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秋田、久保田藩主佐竹氏の居城久保田城です。久保田城には天守は築かれず、天守風の建造物は復元された御隅櫓です。

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白虎隊で有名な会津若松の鶴ヶ城です。戊辰戦争で焼け落ちたため砲撃を受け、砲弾によって損傷しながらも持ちこたえましたが、明治7年に廃城令によって取り壊されました。現在の天守は昭和になって再建されたものです。

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城内には多くの桜が植えられています。

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山形城は敵に攻められた時、霞が掛かって敵の目を逃れた故事から霞城と呼ばれています。

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ここもお堀を埋め尽くす、桜の花筏が見事なお城です。

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2018年4月 4日 (水)

浜松城に未知の櫓か

浜松市は3日、天守近くで多数の屋根瓦が発見されたことから、大規模な櫓があったとみられると発表しました。櫓は多層構造の小天守の可能性があり、瓦の特徴から堀尾吉晴の時代に築かれたと推定できるとしています。

これはちょっと驚きのニュースです。浜松市は今年の1月から3月にかけて天守南側の天守曲輪を発掘し、地中から土塁を守る石垣が発見されましたが、その時南東部から総重量約600Kgの瓦が出土していました。この中には屋根瓦も含まれていましたので、この瓦は江戸時代に入ってから豊臣時代に建てられた天守を壊した時に捨てられ、その上に土盛りをして世間から隔絶したのだと想像していましたが、まさか櫓が存在したとは想像できませんでした。

ただ、大阪城も夏の陣で落城した後は地下に埋められ、その上に新たに徳川の城として現在残っている石垣で再建されましたので、この櫓も無かったものとして地中に埋められたとしても不思議はありません。

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1月に撮影した発掘の様子です。

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発見された大量の瓦です。平瓦に丸瓦が混じっているのが判ります。

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鯱瓦の一部と見られる破片です。

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浜松城公園内に設置されて説明地図に櫓位置を記入してみました。浜松城の絵図はいずれも江戸時代に描かれたものばかりなので、当然それ以前に消失した櫓の存在は記入されていません。黄色が小天守の場合の推定位置、赤色が隅櫓の場合の推定位置ですが、いずれも瓦の出土場所に隣接する位置です。

今回浜松市が出土瓦を理由に櫓が存在したことを公表したのには、櫓の存在を裏付ける他の証拠があるのではないかと推測されます。例えば、石垣の遺構や基礎の存在の証拠となる土木工事跡ですが、これらは発掘をしなくても地中レーダーなどでもある程度存在を確認することが可能ですが、位置を特定するためには新たな発掘調査が不可欠です。

ただ隅櫓や小天守だったとしても、では天守の瓦は何処に行ったのかと言った疑問が残ります。豊臣時代の遺構を壊すのなら真っ先に破却されるのは、その象徴たる天守であって隅櫓とは考えられませんし、小天守を壊すのならその前に天守を壊すのが当然だからです。

浜松城の謎は深まるばかりです。

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2018年3月24日 (土)

浜松市が堀尾吉晴公共同研究会にオブザーバー参加

浜松市は、徳川家康が築いた浜松城を引き継ぎ、石垣の城に作り替えた堀尾吉晴の生涯を調べる自治体の研究会「堀尾吉晴公共同研究会」に2018年度からオブザーバーとして参加することを明らかにしました。

堀尾吉晴は豊臣秀吉の重臣で近江佐和山城の城主でしたが、小田原攻めで北条氏が滅亡し、徳川家康が関東に移封となった後、秀吉の命により家康の居城だった浜松城の城主となりました。それまでの浜松城は土塁中心の防備の城でしたが、当時の最先端技術だった石垣を築き、豊臣政権の威光を天下に知らしめる役割を果たしました。

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天守門復元前の浜松城。門の両側の石垣が見事です。

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鉄筋コンクリートで再建された浜松城天守。しかし、石垣全体の2/3ほどの大きさでしかありません。かつて、ここには後に吉晴が築いた松江城と同様の天守があったと考えるのが自然です。ちなみに浜松城天守の地下には井戸跡が残っていますが、これは大変珍しいものですが、同様に松江城の天守内にも井戸が築かれています。

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松江城を参考に、石垣に合わせて堀尾時代の天守を想像してみました。最近になって現在の石垣より2.5m地下に当時の地面があったことが判りましたので、石垣の下に下駄を履かせました。すると、石垣と天守のバランスが大変良くなりました。

吉晴と同時期に掛川城を石垣の城として作り替えた同じく秀吉配下の山内一豊は、後に高知に移った時に掛川城を参考に高知城天守を築きました。同様に吉晴も浜松城天守を元に松江城天守を築いたとしても、何ら不思議はありません。

浜松市文化財課の太田課長は「堀尾氏は浜松城にとって重要な役割を果たした。研究会に全面的に協力し、情報交換していきたい」と語っていますが、交流によって堀尾時代の浜松城の姿が少しでも明らかになり、天守復元につながることを期待しています。

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2018年2月10日 (土)

浜松城天守曲輪の発掘調査現場説明会

現在、浜松城天守曲輪で発掘調査が行われていますが、現場説明会が開かれると言うので行ってきました。現地に8時半過ぎに到着しましたが、予想通りいつもより多い人々が集まっていました。

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当日の浜松城天守。この下で市の職員が資料を配布していました。

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地下から見つかった石垣。天守曲輪を取り巻く石垣の内側に石垣が築かれていた訳です。確認された高さはおよそ2mですが、当初の高さは3.2mあったと考えられ、当時の地面は現在よりも2.5m深いところにあったことになります。

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浜松市の資料から作成した石垣と地表面の位置関係

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以前作成した浜松城天守の想像図。石垣に比べて天守が高過ぎてバランスが悪いと思っていましたが、今回の結果を受けて下部に2.5m分の石垣を足してやるとバランスもばっちりで、違和感が解消しました。

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現場からは大量の瓦が見つかっています。

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現在残っている石垣を築いたと考えられる堀尾吉晴の紋が入った瓦も見つかりました。

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浜松城天守内に展示されている堀尾吉晴の紋が入った瓦です。

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説明会の様子。2つのグループに分かれ、場所を変えながら1時間ほど行われました。やはり、中高年の姿が目立ちました。

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2018年1月27日 (土)

浜松城の発掘現場を訪問

昨日取り上げた浜松城天守曲輪の発掘調査ですが、土日も実施していると言うことなので早速出かけてみました。

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富士見櫓跡から見た天守曲輪。樹木の伐採によって、ここからの展望はかなり良くなりました。

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発掘現場全景。もっと見学者が多いかと予想していましたが、思ったほどではなく、ゆっくりと見学することができました。

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地下から石積みが見つかっています。

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もしこれが、土塀の土留めとして使われていたのなら、石垣との距離を考えると土塀の幅は相当広かったことになります。

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現場では発掘品の一部が展示されており、自由に撮影することができます。これはウロコ状の模様が線刻されており、シャチ瓦との説明でした。天守のシャチはそれなりの重厚感があると思いますので、こちらは天守門のものかも知れません。

二俣城でもそうでしたが、廃城となった後はゴミなどが埋められたりしており、今回の発掘でも雑排が多数見つかったとのことです。天保の改革で知られる水野忠邦は22代の城主でしたが、幕閣への政治工作に多額の資金を要し、過酷な年貢の取り立てや山形への転封に伴う借入金の踏み倒しなどにより、領民にはすこぶる評判が悪かったようです。こうしたことにより廃城以後は文化財とは見られなくなってしまったのかも知れません。

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埋門跡付近からの天守と天守門。今回の発掘から、当時の地山は現在よりもかなり低い位置にあったようで、少なくとも2回程度埋めたてられているようです。天守台南側の空間に何があったのか、少しでも解明されることを期待したいと思います。

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2018年1月26日 (金)

浜松城天守曲輪で発掘調査

現在浜松城では浜松市文化財課によって天守曲輪(てんしゅくるわ)の発掘調査が1月9日から2月上旬にかけて行われています。今回の調査の目的は土塁の構造を明らかにすることです。

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浜松城にかつて三層以上の勇壮な天守が築かれたことは間違いありませんが、その実像や何時頃にどうして消失したのかは未だに何も明らかになっていません。このように浜松城には多くの未解明の問題がたくさん残されていますが、その一つが天守曲輪の機能です。

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天守門周辺の様子。天守門、土塀は復元されたものです。

浜松城は梯郭式(ていかくしき)の平山城と分類されており、最上部に天守曲輪が築かれ、その東下に本丸、二ノ丸、三ノ丸がありました。通常、城の最深部、最上部に本丸があるのですが、浜松城の場合は天守曲輪の下にあるという特異構造で、他に例を見ない特殊な構造です。

何故、本丸が一番上部に築かれなかったのか、それは浜松城が三方原台地の末端に築かれたため、城の北側からの攻撃に弱点を持っていたからではないかと考えます。このため、家康時代には北側に作佐曲輪(さくざくるわ)、天守台の外側に西端城を築いて守りを固めていますが、高低差のある東側の守りに比べると脆弱であることは明白です。ここで、天守曲輪の目的ですが、ここが最高点であることから物見の場所として最適です。また、北側から攻めて来る敵に対しても一段高い場所から攻撃を加えることが可能となります。

つまり、城攻に遭った場合の最後の砦ではなく、当初は本丸を守る最強の防護陣地として考えられたのではないかと推測します。このため土塁や武器庫などが築かれたのではないかと考えられます。浜松城は築城初期には信玄の遠州攻略の危機がありましたが、やがて今川氏、次いで武田氏を打ち破ったことによって、周囲に敵なしの状態となって次第に権力を象徴する場所へと変貌を遂げたのではないかと考えます。

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天守曲輪北側の石垣。屏風折りの手法で築かれており、当時の最先端の技術が用いられています。

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天守門復元工事で立ち入り禁止となった時の天守曲輪。このように天守石垣から南側は更地となっています。

2月10日に今回の調査結果について現地説明会が予定されていますが、これまで判らなかった多くのことが解明されることを期待しています。

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