2018年11月 3日 (土)

浜松城発掘説明会

またまた浜松城の話題で恐縮です。今日は浜松城の第24次発掘調査の現地説明会が催されましたので、出掛けて来ました。市民の関心も高く、今回も多数の方が参加していました。

Pb030008r18

天守曲輪内側石塁の東南隅の屈曲点です。今日は雲が多く、少し肌寒い気候でしたが、写真を撮る上ではコントラストが和らいで好都合でした。説明会なので、現場も整理され、良い状態で撮影できるのはありがたい限りです。

Pb030025r18

天守曲輪南側の石塁と発見された大量の瓦です。現在のところ、江戸時代以前の様式のものしか確認されておらず、堀尾吉晴が築いた建造物に使われていた可能性が極めて高いものと見られています。

Pb030023r18

問題の櫓の礎石と見られる平たい石です。上の写真の石と比べて大きく、形も整っているのが良く判ります。

Pb030010r18

こちらは反対側にある埋門(うずみもん)の南側のトレンチです。石垣が2段になっていますが、この場所に石垣上部に上がる石段が作られていたとのことで、江戸時代の絵図とも一致していました。

Jpg

往時の天守曲輪の様子を想像してみました。前回は実際の復興天守でしたが、天守台の規模からするとかなり高さも大きさも低いので、松江城の天守を拝借しました。こうして見るとかなり強固な軍事施設であり、かつ豊臣の威光を領民に見せつける効果は十分に果たしたものと思われます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年11月 1日 (木)

浜松城の幻の櫓

昨日の続きです。浜松城天守曲輪の東南隅に、櫓跡とみられる礎石が発見されたと浜松市が発表しました。江戸時代に作られた絵図から本丸に多門櫓、菱櫓、富士見櫓などがあったことが判っていますが、天守曲輪に櫓の存在は一切記されていませんので、言わば幻の櫓と言う訳です。そして、礎石の位置は天守曲輪の内側に築かれた石垣の外側に位置しています。それは何故なのかについて再度考えてみました。一つには耐震性を考慮した結果ではないかと言うものです。

Photo

浜松城天守曲輪の櫓の想像図です。天守曲輪の東南側は城内でも最も石垣が高くなっています。ここに櫓を築いた場合、石垣に負担がかかるので、重量の一部を直接地面で受けることで、石垣の負担を減らす目的です。しかし、このような建て方をされた櫓の例を知りません。

Photo_2

一般的な櫓は石垣の上にこんな具合に建てられています。つまり、石垣の幅を広くすれば済む話です。では、何故そうしなかったのか。それは当初は櫓を築く予定がなかったか、あってももっと規模の小さいものを予定して石垣を築いた後に、計画を変更したのではないかと言うことです。

それならば、足りない床部分の基礎を石垣の外側に設けることで解決が可能です。敢えて石垣上にそれ以上の規模の櫓を築くのには、造営の途中で計画を変更したと見るのが自然のような気がします。

Png

現在の浜松城に勝手に櫓を追加してみましたが、どうでしょうか、より勇壮に見えるようになった気がしませんか。堀尾吉晴と同時期に山内一豊が築いた掛川城には、太鼓櫓が残っています。もしかしたら、一豊への対抗心で急遽櫓を築かせたのかも知れません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年10月31日 (水)

浜松城天守曲輪に櫓の存在を確認

今朝は、枕元の温度計がこの秋初めて19℃を割り込んで冷え込みを感じましたが、ホットニュースです。

昨日取り上げました浜松城の発掘に関するニュースですが、今朝の中日新聞に掲載されていました。発表によれば、浜松城東南隅に平らな形の石が複数発見され、櫓の礎石とみられるというもので、櫓の規模は最大で南北10メートル、東西7メートルほどとしています。

Pa070029r18

礎石と思われる平らな石で、7月の段階で地表から2メートルの場所で見つかっていました。当初から見学者の間から礎石ではないかとの声が上がっていましたが、今回始めて公式に礎石とみられると発表されました。

P9020004r18

別角度から。他の石と比べて大きく、平たいことが判ります。

Photo

想定される櫓の位置ですが、上図右下の赤く色付け下部分です。 (実測図は浜松市文化遺産デジタルアーカイブより)

Photo_3

浜松城天守曲輪の断面の模式図です。今回見つかった礎石は当時の地表面に置かれていますが、その上に2メートル以上の石垣が積まれていました。すると礎石は石垣の外側に置かれたことになります。石垣の幅をもっと広げて直接石垣の上に櫓を建てることもできた筈ですが、何故そうしなかったのか。ひとつの可能性としては石垣の外側の地面に直接置くことで、耐震性を高めたことが考えられます。

P9131961

これは姫路城西の丸にある百間櫓ですが、一部が石垣から外部に張り出した形になっています。もしかしたら、浜松城の櫓もこうした形式を取っていたのかも知れません。何にしてもさらなる調査が待たれます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年10月30日 (火)

浜松城発掘調査の報道発表日

現在浜松城天守曲輪の発掘調査が行われており、今週末には現地で説明会が予定されています。本日は、説明会に先駆けて、発掘調査で明らかになった成果が報道陣に発表されることになっています。

P8080004r18

発掘の様子の一コマ。

Photo
現地説明会のパンフレット

今回の発掘では鯱瓦をはじめ、大量の瓦や、前回発見された石垣の延長部分が確認されました。それらの多くが東南隅に櫓があったことを示唆するに十分な物証だと思われますが、果たしてどこまで踏み込んだ発表がなされるか、大いに注目されます。

P8080045r18

堀尾吉晴が大きく作り替えた浜松城がどんな姿をしていたのか、そのベールがまた1枚剥がれることになるのか、発表結果が待たれます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年10月17日 (水)

駿府城で豊臣時代の天守台が出土

駿府城は、今川氏の居館であった今川館の跡に家康が築いたものですが、北条氏の滅亡後に江戸に転封となり、豊臣の家臣の中村一氏が14万石で入城しました。この時期、同じように掛川城には5万9千石で山内一豊、浜松城には12万石で堀尾吉晴、豊橋の吉田城には15万2千石で後に姫路城を築いた池田輝政が入城して石造りの城を築きました。

中村時代の駿府城も、浜松城同様に当然当時の最先端の技術で改修が行われたものと考えられますが、その後将軍を退いた家康が隠居所として新たに天下普請で城を築いた際に跡形もなく消されてしまいました。ところが、明治の廃条令で取り壊されてしまった天守台の発掘調査の中で、新たに中村時代の天守台の石垣が発見されたと16日になって静岡市が発表しました。

発表によれば、天守台は野面積みで南北37m、東西33mの大きさで、周囲から金箔瓦の破片330個が発見されました。金箔瓦は権力者が権威を誇示する目的で用いたもので、急速に勢力を拡大しつつあった家康を上回る当時の豊臣家の権勢を駿府の領民に見せつける意味があったのではないかと考えます。

今回の中村時代の天守台の存在は、同時に堀尾吉晴が築いた浜松城をもクローズアップさせます。既に何度も取り上げていますが、堀尾が築いた浜松城天守は江戸時代に入ると消えてしまい、その後の絵図にも登場しません。では、何故同時期に豊臣の武将だった一豊が築いた掛川城の天守は残ったのに、浜松城の天守だけが消えてしまったのか?謎は深まるばかりです。

P4070017

昭和33年に鉄筋コンクリートで建てられた浜松城の復興天守。この天守を見て家康が築いたものと思ってしまう人がいますが、家康の時代には今の天守台はなかったと考えられています。

P8080020r18

天守台のある天守曲輪では以前の発掘調査で大量の瓦と地下に埋もれた石垣がが見つかっています。秀吉時代の大阪城が埋められ、その上に現在の大阪城が建てられたように、駿府城でもそのような構図が見て取れることから、浜松城の天守曲輪内の建造物が江戸時代に入って取り壊された可能性はかなり高いように思われます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年10月11日 (木)

石垣の修復は大変

丸亀城の石垣崩壊は、ある程度予感されたことですが、有効な対策が打たれなかったことが大変残念です。城郭における石垣の崩壊は今に始まったことではなく、江戸時代にも大雨や地震などによって発生し、その都度修復されて来ました。従って悲観することはないのですが、元あった姿に戻すのは大変な労力を要します。

地震による城郭の被災と言えば、熊本城が思い浮かびますが、戦後すぐに発生した福井大地震(1948年)では丸岡城の天守が倒壊していますし、2011年の東日本大地震では複数の城で被害が出ています。

P4200029r

堀に面した石垣の修復作業中の福島県の白河小峰城です。

P4200028r

修復が完了した石垣です。白く見えるのが新しく補った石材で、広い範囲で石材が破損したことが覗えます。

P4200030r

再建された石垣に残る墨入れの跡。修復作業では、地震前の写真を基に個々の石材があった位置や角度などを検証し、できるだけ以前の姿に近くなるよう修復されました。

P4200031r

こちらも修復された石垣です。まるでモザイク模様のように石材が積まれています。

工事の方に聞いた話では、小峰城に使われている石材は、一般の物と比べて少し軽いそうで、その分地震の揺れに対して弱かったとのことです。

P5020317r

弘前城では、膨らんでしまった石垣を一旦解体し、改めて積み直す修復工事を行っていますが、10年がかりの大工事です。写真は工事前のものですが、石垣の日陰の部分の中に太陽が当たっている部分が確認できます。そこだけ陽が当たっているのは、大きく膨らんで飛び出しているからです。

P9020023r18

最近見つけた浜松城の石垣に張られたマーカーです。市の担当者と話す機会があったので、これについて確認したところ、やはり石垣の監視用に測量するためのもので、相当以前から実施しているが、今のところ安定しており、問題はないとのことでした。

明治の廃城例で、多くの城ではせっかく残っていた貴重な建築物の多くが取り壊されてしまいました。それでも残った石垣がそこに城が存在したことや、その規模、作られた年代などを歴史の証人として語り続けています。後世に引き継ぐために、保全・修復には万全を期して欲しいものです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年10月 9日 (火)

丸亀城石垣が崩壊

国の重要文化財で、現存する木造天守12城の一つである四国丸亀城の石垣の一部が8日午前10時15分頃、崩壊してしまいました。台風24号による大雨の影響と見られます。丸亀城は高い石垣で有名なお城ですが、400年の歳月を経て石垣の劣化が進んでしまったようです。

P5040234r18_2

丸亀城の天守です。

Photo_3

丸亀城には今年の5月に訪れましたが、その時既に亀裂が発生していました。①の部分は一部崩落しており、②、③の部分で亀裂が目立っていました。今回は③の部分が④の点線の範囲で完全に崩壊してしまったものです。

P5040227r18

丸亀城には立派な石垣が残されていますが、植物の除去など十分な管理が行われているとは言えないようです。

P5040236r18_2

丸亀市の人口は約11万人です。文化財の保護に十分な予算が割けない事情があるのかも知れませんが、事前に兆候をつかみながら、崩壊を防ぐことができなかったのは大変残念です。県や文化庁の責任も大きいのではないでしょうか。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2018年10月 7日 (日)

浜松城発掘調査 その8

本日7日は予め予定されていた、浜松城発掘調査の3回目の公開発掘の日でした。ところが、突如発生した台風25号の北上がこの週末頃と予想されたため、公開発掘が中止になることが懸念されました。結果的に速度を速め、昨日の内に日本海を抜けたために今日は抜けるような青空となりました。

Pa070030r18

浜松城天守曲輪から見えた富士山。今日は南風の影響で気温が高めでしたが、しっかり見えました。

Pa070016r18

気になっていた東のトレンチの石垣の屈曲点は、ほぼ直角に折り返していることが判ります。

Pa070013r18

こちらは天守門側のトレンチ。平たい石が気になります。

Pa070007r18

新しく見つかった鯱瓦の破片。(手前の一番大きいもの)

Pa070026r18

大量の瓦の中に、珍しい形のものも見つかっています。果たしてどんな形状をしているのか、大変きになります。

Pa070023r18

こちらは埋門側のトレンチ。近代の工作物で石垣が途中で破壊されていました。

Photo

ところで、発掘現場で気になる話を聴き込みました。天守門南側の石垣が過去に崩壊しており、修復されているというものです。浜松城では他にも修復されたとみられる石垣がありますので、さもありなんと思い石垣を見てみました。すると今まで気が付きませんでしたが、確かに他とは違う外観の部分があることが判りました。赤い点線の部分がそれですが、実際のところはどうでしょうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年10月 5日 (金)

現存12天守登城制覇

本日、国宝の犬山城を訪問しましたが、これで現存する木造天守の城の12城全ての訪問が完了しました。我が国には多くの城が築かれ、木造の天守がを持った城が明治まで残っていましたが、廃条例によって取り壊されたり、空襲によって消失したりして、現在は以下の12城しか残っていません。

北から弘前城、松本城、犬山城、丸岡城、彦根城、丸亀城、高知城、宇和島城、松山城、姫路城、備中松山城、松江城の12城です。この内、弘前、松本、姫路、松江の各城には複数回訪れていますが、何故か一番近くにある犬山城にはこれまで行ったことがありませんでした。本当は南アルプス南部に登山の予定だったのですが、まさかの台風の襲来とあって急遽お城巡りに変更しました。

Pa050031r18

犬山城第一駐車場付近から見た犬山城天守。木立が多いので、東側からの展望はあまり良くありません。

Pa050006r18

本丸を守る鉄門(くろがねもん)。鉄筋コンクリートで復元されたものです。天守の石垣は野面積みですが、鉄門左側の石垣は打ち込み接ぎとなっています。

Pa050007r18

鉄門内側から見た天守。犬山城の天守は国宝で、かつては日本最古の天守と言われていましたが、現在では1、2階部分は1601年、望楼部は1620年とする説が有力となっています。では、最古の天守はと言いますと、福井地震で倒壊し、その後従来の部材で再建された丸岡城が1600年以前と考えられていますが、それを裏付ける物証がないため、推定の域を出ないままとなっています。

Jpg

高い石段が特徴的な丸岡城天守です。

Pa050012r18

真下から見上げた小牧城天守。

Pa050027r18

天守内部。

Pa050024r18

天守最上階に展示されている国宝指定書。展示されている国宝指定書を見るのは初めてです。

Pa050019r18_2

天守内部から見た本丸の内側。犬山城は天守こそ残りましたが、残念ながら、その他の遺構の多くは廃城に伴う激動の歴史の中で失われてしまいました。姫路城や松山城、熊本城などで、比較的良好な形で遺構が残されたことは本当に幸運だったと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年9月26日 (水)

浜松城発掘調査 その7

前回発掘現場を訪ねた時は、シートで覆われて見学することができませんでした。今日は仕事が休みでしたので、気になっていた浜松城の発掘現場に行って来ました。

P9260009r18_2

天守門南側のトレンチです。今日は、午後から視察の予定が入っているとのことで、トレンチのシートは外されていました。

P9260014r18_2

気になっていた、東側の石垣の屈曲点はどうやら明らかになりつつあるようです。

P9260005r18_2

こちらは西側の発掘現場です。

P9260004r18_2

埋み門南側の石垣です。他の部分よりも石垣の幅が広くなっており、どうやら石垣の形状に合わせた構造物が建てられていた可能性がありそうです。鉄筋コンクリート製の天守が建てられる以前には、天守曲輪にトロッコ電車の線路が設置されていましたので、その当時の名残りか、地中からはコンクリート片が見つかっていました。

20180926

今回の発掘については、現段階で浜松市からの正式な発表はありません。私の目撃情報と想像を図にするとこんな具合になりますが、あくまでも想像の産物です。

(図は浜松市文化財デジタルアーカイブの浜松城天守曲輪実測図を使用しています)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧