2019年6月21日 (金)

浜松城二の丸跡発掘調査始まる

先日、もしかしたら延期かもと記事にしましたが、浜松城の二の丸の発掘調査が開始されたと今朝の中日新聞が報じています。実は水曜日に、仕事で現場の旧元城小学校前を車で走行したのですが、その時重機が配置されていたのとフェンスに飛散防止用のシートが設置されていましたので、もしかしたらとの予感がありました。

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今年2月に撮影した元城小学校跡地です。

記事によれば、今回の発掘は重機を使った予備的なもので、全体をマスの目状に掘って、遺構の位置を確認するのが主目的のようです。二の丸は廃城後、民家として使用された後、小学校用地として使われましたが、その際盛り土されたようです。今回の発掘では表面の土を1mほど掘り下げ、江戸時代の地表面まで掘り下げる予定です。絵図によれば二の丸には御殿が築かれ、城主が居住したり、藩政を執り行う役所の役割を果たしていたことが判っており、絵図に沿った調査が行われる模様です。調査は来年1月までの予定で行われます。

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浜松城復興天守に展示されている浜松城縄張りのジオラマです。

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2019年6月 4日 (火)

浜松城第26次発掘調査は先送りか

浜松城は明治の廃城令の後、遺構の保存が十分でなく、本丸や二の丸部分が大規模な建設工事によって損なわれてしまいました。元城小学校の敷地となった二の丸部分でも校舎やプール、体育館などが、地下を掘り下げた基礎工事を経て建てられてしまいました。一昨年に元城小学校が閉校となったことから、浜松城の26次発掘調査として、地下の深い部分に残された遺構や遺物の発掘が予定され、一時は支援事業の公開入札が公募されましたが、突然中止され、5月30日付で新たに27次の入札が公募されています。

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浜松城の発掘風景

これは国道257号線を挟み、市役所の東側に位置する浜松磐田信用金庫が、旧三の丸跡地に本部ビルの新設工事を予定していることが判ったため、急遽発掘調査を組み入れたためではないかと思われます。このため、予算および人的資源の制約から、26次調査を凍結し、27次調査を先行することにしたのではないかと推測されます。

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発掘予定地 (出展:遠州浜松城絵図 浜松市文化財デジタルアーカイブより)

26次調査予定地では堀跡が含まれるため、貴重な出土品が出ることが予想されていました。一方27次予定地は、現在既にビルが建っていますので、遺構の保存状態はあまり期待できませんが、これまで判っていなかった新たな事実が明らかになることが期待されます。

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2019年4月18日 (木)

ノートルダム大聖堂の修復は困難が予想

ノートルダム寺院の火災は世界中にショックを与えました。フランスのマクロン大統領は20042024年までに再建したいと言っていますが、火災の被害は当初見られていたよりも深刻な情報が伝わって来ています。屋根以外の構造体は無事との報道もありましたが、放水や加熱による強度劣化については現時点で内部の安全性が確保されておらず、詳細は判っていません。第二次大戦末期に空襲で焼けた名護屋城の場合、石垣の被害を受けていますが、今回の木造復元に際して、石垣の安全性が指摘されています。

また尖塔を含む上部構造物も複雑な構造で、建築作業自体に時間がかかることや、使用する木材の確保や乾燥にも時間がかかることから、とても5年間で済むような話ではなく、暫定的に屋根を掛けて、後はじっくり修復することになるのではないでしょうか。

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2019年3月29日 (金)

丸岡城天守は江戸時代の建造と判明

福井県坂井市にある丸岡城の天守は石の瓦で葺かれていることで有名ですが、現存する12の木造天守の中で最も古い年代に築かれたと考えられていました。ところが、最近になって坂井市教育委員会が、柱などの木材を使って年代を測定した所、1620年以降に伐採されたものであることが明らかになり、造営された時期が寛永年間(1624~44年)であることが特定されました。丸岡城天守は建築様式や石垣が野面積みであることから、これまで江戸時代以前に築かれたと考えられていました。

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丸岡城の天守です。

丸岡城の天守が江戸時代に下がってからのものだと判りました。では改めて最古の天守は、と言うことになりますと、答えは国宝の松本城乾小天守(いぬいしょうてんしゅ)と言うことになり、築造年は天正19年(1591年)もしくは文禄3年(1594年)と推定されます。天守が現存する12城の大半が、磨かれた石垣の上に華麗な天守を誇っていますが、これには理由があります。

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松本城の天守、小天守、月見櫓です。

江戸時代以前の戦国時代は、いつ敵が攻めてくるか判らず、のんびりと城造りをしている余裕はありませんでした。大きな城を作るよりも兵力を増強して戦に備えたり、隣国に攻め入って領地を拡大することが領主たる大名に求められたことでした。しかし、関ヶ原の合戦で西軍が敗北し、徳川家の支配が確固たるものになると、大名は領地の経営に心血を注ぐようになります。そして、支配者としての権力を領民に誇示するのに利用したのが、高い天守を備えた堅牢な構えのお城でした。姫路城も名古屋城も、現在ある城は関ケ原の戦い以後に築かれたものです。

丸岡城天守が最古のものではないことが明らかになったことは大変残念ですが、それでもかなり古い時期に建てられたことは間違いありませんので、今後も大切に保存されることを、ひたすら願うのみです。

 

 

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2019年3月17日 (日)

丸亀城の崩落石垣修復工事がスタート

昨年10月の大雨で崩落した香川県の丸亀城の石垣について、緊急修復工事がスタートしたようです。丸亀城では以前から石垣の孕みが確認されており、修復工事に入る矢先に大雨に見舞われ、下の写真に写っている大半が崩落してしまいました。

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昨年5月に撮影の丸亀城南西側の石垣です。

今回の緊急工事は本格的な修復工事に備えて、崩落した石垣の撤去や新たな崩落の防止を図るのが目的です。工事は三つに分かれて行われ、その1として、崩落した石垣の撤去と崩れ残って不安定になっている石垣の除去工事です。その2として、崩れた斜面に防水シートを設置したり、排水路を設けて新たな崩落が起こらないようにする工事です。その3は崩れた斜面を削ってモルタルを吹き付けたり、崩れた石垣周辺の石垣にネットをかけて補強する工事です。緊急工事の総額は9396万円で原則として3月末までの予定ですが、市議会で予算の繰り越しが認められれば、梅雨入り前の5月末まで行われる見込みです。

崩れてしまった石垣の総個数はおよそ6000個に上り、修復完了まで5年、工事費35億円が見込まれています。2011年の東日本大震災で被災した福島県白河市の小峰城は今月末に石垣の修復工事が完了予定ですが、修復に8年を要しています。小峰城の修復で培われた修復技術は丸亀城や熊本城の修復に生かされることになっていますので、少しでも工期が短縮できればと思っています。

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修復された小峰城の石垣です。

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同じく修復が終わった御三階櫓です。

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2019年2月14日 (木)

浜松城に本年初登城

浜松城の発掘調査も一段落したので、ちょっと足を運ぶ間隔が空いてしまいましたが、昨日3ヶ月振りに行って参りました。今回は、廃校になった旧元城(もとしろ)小学校の建物の撤去作業の進捗状況と、天守曲輪の発掘調査の後がどうなったかを確認するのが目的です。

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先ずは、旧元城小跡地の現況はこんな具合でした。富士見櫓跡から見た二ノ丸方向です。地上の建物は全て撤去されて現在は周辺の残存物を整理している状況です。来年度はここを発掘調査することになっています。小学校建設に伴い、地下の遺構の損壊が懸念されますが、未知の遺物が多く残っていることが期待されますので、発掘が待たれます。

富士見櫓から東に延びる本丸の石垣がブッシュに覆われていましたが、昨日伐採作業が行われていました。発掘調査の前作業か公園整備の一環なのか判りませんが、新たな姿明らかになるのは歓迎です。

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昨日は朝の内、中々雲が取れず撮影は半分諦めていましたが、昼近くになって抜けるような青空になりました。

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現在の発掘現場の様子です。すっかり埋め戻されて何事もなかったかのような佇まいです。今のところ、新たな発掘の成果についての説明板の設置はされていませんでした。

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昨日も観光客がひっきりなしに訪れていましたが、この下に石垣が埋まっていることを知る由もなく、天守門内部を見学していました。

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ところで、新たな動きがありました。家康時代の堀跡が見つかった旧庁舎跡は将来的に公園として整備される予定となっていますが、整地してベンチが整備されていました。

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現在の状況です。これが完了形ではなく、一時的なものだと思われますが、石垣を眺めながら一息入れることができるようになりますので、利用の増加につながるものと期待されますが、今のところ日射を遮るものが設置されていませんので、夏場はちょっとつらいかも知れません。

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2018年11月 3日 (土)

浜松城発掘説明会

またまた浜松城の話題で恐縮です。今日は浜松城の第24次発掘調査の現地説明会が催されましたので、出掛けて来ました。市民の関心も高く、今回も多数の方が参加していました。

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天守曲輪内側石塁の東南隅の屈曲点です。今日は雲が多く、少し肌寒い気候でしたが、写真を撮る上ではコントラストが和らいで好都合でした。説明会なので、現場も整理され、良い状態で撮影できるのはありがたい限りです。

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天守曲輪南側の石塁と発見された大量の瓦です。現在のところ、江戸時代以前の様式のものしか確認されておらず、堀尾吉晴が築いた建造物に使われていた可能性が極めて高いものと見られています。

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問題の櫓の礎石と見られる平たい石です。上の写真の石と比べて大きく、形も整っているのが良く判ります。

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こちらは反対側にある埋門(うずみもん)の南側のトレンチです。石垣が2段になっていますが、この場所に石垣上部に上がる石段が作られていたとのことで、江戸時代の絵図とも一致していました。

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往時の天守曲輪の様子を想像してみました。前回は実際の復興天守でしたが、天守台の規模からするとかなり高さも大きさも低いので、松江城の天守を拝借しました。こうして見るとかなり強固な軍事施設であり、かつ豊臣の威光を領民に見せつける効果は十分に果たしたものと思われます。

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2018年11月 1日 (木)

浜松城の幻の櫓

昨日の続きです。浜松城天守曲輪の東南隅に、櫓跡とみられる礎石が発見されたと浜松市が発表しました。江戸時代に作られた絵図から本丸に多門櫓、菱櫓、富士見櫓などがあったことが判っていますが、天守曲輪に櫓の存在は一切記されていませんので、言わば幻の櫓と言う訳です。そして、礎石の位置は天守曲輪の内側に築かれた石垣の外側に位置しています。それは何故なのかについて再度考えてみました。一つには耐震性を考慮した結果ではないかと言うものです。

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浜松城天守曲輪の櫓の想像図です。天守曲輪の東南側は城内でも最も石垣が高くなっています。ここに櫓を築いた場合、石垣に負担がかかるので、重量の一部を直接地面で受けることで、石垣の負担を減らす目的です。しかし、このような建て方をされた櫓の例を知りません。

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一般的な櫓は石垣の上にこんな具合に建てられています。つまり、石垣の幅を広くすれば済む話です。では、何故そうしなかったのか。それは当初は櫓を築く予定がなかったか、あってももっと規模の小さいものを予定して石垣を築いた後に、計画を変更したのではないかと言うことです。

それならば、足りない床部分の基礎を石垣の外側に設けることで解決が可能です。敢えて石垣上にそれ以上の規模の櫓を築くのには、造営の途中で計画を変更したと見るのが自然のような気がします。

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現在の浜松城に勝手に櫓を追加してみましたが、どうでしょうか、より勇壮に見えるようになった気がしませんか。堀尾吉晴と同時期に山内一豊が築いた掛川城には、太鼓櫓が残っています。もしかしたら、一豊への対抗心で急遽櫓を築かせたのかも知れません。

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2018年10月31日 (水)

浜松城天守曲輪に櫓の存在を確認

今朝は、枕元の温度計がこの秋初めて19℃を割り込んで冷え込みを感じましたが、ホットニュースです。

昨日取り上げました浜松城の発掘に関するニュースですが、今朝の中日新聞に掲載されていました。発表によれば、浜松城東南隅に平らな形の石が複数発見され、櫓の礎石とみられるというもので、櫓の規模は最大で南北10メートル、東西7メートルほどとしています。

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礎石と思われる平らな石で、7月の段階で地表から2メートルの場所で見つかっていました。当初から見学者の間から礎石ではないかとの声が上がっていましたが、今回始めて公式に礎石とみられると発表されました。

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別角度から。他の石と比べて大きく、平たいことが判ります。

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想定される櫓の位置ですが、上図右下の赤く色付け下部分です。 (実測図は浜松市文化遺産デジタルアーカイブより)

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浜松城天守曲輪の断面の模式図です。今回見つかった礎石は当時の地表面に置かれていますが、その上に2メートル以上の石垣が積まれていました。すると礎石は石垣の外側に置かれたことになります。石垣の幅をもっと広げて直接石垣の上に櫓を建てることもできた筈ですが、何故そうしなかったのか。ひとつの可能性としては石垣の外側の地面に直接置くことで、耐震性を高めたことが考えられます。

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これは姫路城西の丸にある百間櫓ですが、一部が石垣から外部に張り出した形になっています。もしかしたら、浜松城の櫓もこうした形式を取っていたのかも知れません。何にしてもさらなる調査が待たれます。

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2018年10月30日 (火)

浜松城発掘調査の報道発表日

現在浜松城天守曲輪の発掘調査が行われており、今週末には現地で説明会が予定されています。本日は、説明会に先駆けて、発掘調査で明らかになった成果が報道陣に発表されることになっています。

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発掘の様子の一コマ。

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現地説明会のパンフレット

今回の発掘では鯱瓦をはじめ、大量の瓦や、前回発見された石垣の延長部分が確認されました。それらの多くが東南隅に櫓があったことを示唆するに十分な物証だと思われますが、果たしてどこまで踏み込んだ発表がなされるか、大いに注目されます。

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堀尾吉晴が大きく作り替えた浜松城がどんな姿をしていたのか、そのベールがまた1枚剥がれることになるのか、発表結果が待たれます。

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