2018年6月21日 (木)

被災した熊本城元太鼓櫓が倒壊

熊本大地震で石垣が崩れるなどの被害を受け、8月に解体される予定となっていた熊本城の元太鼓櫓が倒壊しました。原因は地震で石垣に大きな損傷を受けて傾いていたところに、今回の大雨で石垣が崩壊し、倒壊したものです。元太鼓櫓は西大手櫓門の外側虎口に建っていましたが、明治になって取り壊され、2003年に木造で復元されていました。

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元太鼓櫓の位置関係はこんな具合です。 (出典:国土地理院 地理院地図を加工)

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西出丸側から見た西大手門です。石垣左側にわずかに見えるのが元太鼓櫓だと思います。

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イメージ的にはこんな平櫓ですが、板張り部分は全面が右側位の高さでした。

熊本城ではこれ以外にも木造復元しながら震災で大きく壊れた建物に飯田丸五階櫓がありますが、今回元太鼓櫓が全壊してしまったのは残念至極ですが、けが人が出なかったのがせめてもの救いでした。

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2018年6月15日 (金)

浜松市議会で浜松城が議題に

浜松市の定例市議会で、浜松城公園の整備に関する質問がいくつかあったようです。各会派4氏が浜松城に関する質問に立ちましたが、市側の回答では、来年度に予定されている、二の丸跡に建てられている廃校となった旧元城小学校跡地の発掘調査の結果によって、今後の整備計画が大きく見直される可能性が出てきました。

二ノ丸跡には現在旧元城小学校と市庁舎が建っていて、かつての面影はどこにも残っていません。特に市庁舎は基礎工事などで遺構が破壊されてしまっている可能性が大きいものと思われますが、旧元城小学校跡は校庭の部分の保存状態は良好と考えられ、二ノ丸御殿の遺構が確認できるのではないかと期待されます。

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現在の二ノ丸跡。 (出典:浜松城公園長期整備構想より引用)

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浜松城天守内に展示されているジオラマでは二ノ丸はこのように再現されています。

答弁に立った長田副市長は、将来的には公園整備の計画次第では市庁舎の移転もあり得るとしていますので、益々旧元城小学校跡地の発掘調査に期待がかかります。

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2018年6月 3日 (日)

浜松城発掘調査説明会

本日午前、浜松城の発掘調査で見つかった石垣が、露出展示用に整備されたのと最新の発掘調査の説明会が開かれたので行って来ました。

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浜松城へはいつもはマイカー利用なのですが、本日はイベントで駐車場が閉鎖となっていますので、駅まではバスを利用し徒歩で向かいました。途中でリニューアルされたマンホールを見つけたのでパチリ。

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今日の浜松城。すっかり夏の装いです。

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本日お披露目された発掘された石垣の露出展示部分です。浜松城跡は現在浜松城公園として公園化されていますが、その過程で遺構の一部が破壊されてしまいました。この石垣ももっと左側まで続いているそうです。

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2015年8月に発見された当時の石垣の様子です。

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発掘で見つかった文化財は、保護のために埋め戻されることが多いそうですが、今回は市民の目に触れるように、露出したまま展示することになり、周囲を補強しています。また、石垣の上部は遊歩道の整備の過程で失われてしまっていたので、おなじ石材で積み増しされました。少し小振りな石を使っていますので、境界がぼんやりと分かるかと思います。また、石垣の下部は補強のために少し盛り土されています。

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新たに積み増しされた石垣部分。奥の方にシートが見えます。これは決して手抜き工事などではなく、旧来の石垣との境界にシートを敷いた結果だと言うことです。

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本日の説明会の目玉です。今年1~3月の発掘調査で江戸時代以前の瓦が大量に見つかっていますが、櫓があった根拠の一つとして、周囲から少し飛び出している、この石垣の形状が挙げられるとのことです。この場所は2枚目の写真の白い幟(のぼり)が立っている所です。

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浜松城天守曲輪実測図です。 (出典:浜松市文化遺産デジタルアーカイブより)

図の右下、天守曲輪の南東の隅が少し出っ張っています。ここが上の写真の位置です。このような出っ張りを出隅(ですみ)と言いますが、ここに櫓が建っていたのではないかと考えられています。(青い部分)今年の夏にこの場所を発掘して調査を行うことが決まったとのことです。

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2018年5月12日 (土)

お城と階段

名古屋城の天守を木造で再建する計画について、名古屋市が史実に忠実に復元するためにエレベーターは設置しない方針を固めたことに対し、障害者の団体が差別だとして知事に救済を依頼する事態となっています。名古屋城は国の指定史跡となっている文化財で、日常的に利用する一般的な公共施設とは違いますので、私は名古屋市の決定を支持する立場ですが、他のお城ではどのようになっているのか、以前に撮った写真から確認してみました。

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1991年に木造再建の先駆けとなった福島県の白河小峰城です。残された絵図を基に木造で再現されました。本丸まで石段が続いており、車いすでの見学は考慮されていません。御三階櫓(天守に相当する櫓)に上がるには更に左側の急な石段を上る必要があります。

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こちらは1994年に最初の木造再建天守となった掛川城天守の内部ですが、急こう配の階段が設置されています。掛川城城主だった山内一豊は掛川城を偲んで高知城天守を築いたと言われていますが、掛川城の復元に当たっては、高知城天守を参考にしています。

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古写真を基に2005年に木造で再建された熊本城飯田丸五階櫓です。右側に入り口の石段があり、その上に勾配を緩くした階段が設けられていますが、車いすでの入場はできません。

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飯田丸五階櫓の内部です。再建に当たっては在来軸組工法で建てられ、段差は階段となっていて、車いすでの見学はできません。

この他2004年には、愛媛県の大洲城天守が明治時代の写真や大洲藩作事棟梁だった中村家に伝わる天守雛形などから詳細な内部構造資料を基に木造で再建されていますが、こちらにもエレベーターは設置されていません。

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江戸時代の天守が現存している宇和島城の天守内部の階段です。どこの城もそうですが、天守内部には急な勾配の階段が設けられています。軍事施設として城郭が築かれた時代には、こうした階段が当たり前のことでした。文化財として天守を復元しようとする場合、史実に基づいた構造・工法であるが求められるのは当然のことと言えるのではないでしょうか。

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2018年5月 9日 (水)

四国お城巡り 丸亀城編

名古屋城天守が木造再建の準備のため、再建工事完了まで見学が中止となりましたが、四国お城巡りも今回で最終回です。

丸亀城へは松山城から向かいましたが、移動に時間がかかるため、到着時には天守への入場時間を過ぎており、内部の見学はできませんでした。また、当日は丸亀お城まつりの開催日で、周辺は交通規制が敷かれており、大手口は大変な混雑だったので、こちらからの入城は断念せざるを得ませんでした。

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三ノ丸と二ノ丸の高石垣です。倒壊防止用なのか、三ノ丸石垣下部に黒い土嚢風の物体が積み上げられていました。良く見ると石垣に亀裂が生じており、石垣の状態が悪化しているのが判ります。

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搦手口付近から見た石垣群。この辺りの石垣は大丈夫そうでした。

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二ノ丸への虎口です。時間が遅いので陰の部分が多くなっています。

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大手門付近から見た丸亀城天守です。大手門に向いた側は、立派に見せるために唐破風や下見板で化粧しています。

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大手門は、くの字型の櫓門となっていますが、こちらが国の重文の大手一の門です。この向こう側に堀に面した大手二の門がありますが、今回は見学を断念しました。

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国の重文の御殿表門です。普段はできるだけ人物が映り込まないようにしていますが、流石にイベント開催中なので、建物だけとは行きませんでした。

今回、高知・宇和島・松山・丸亀と四国にある現存4天守全てを周ることができましたが、まだまだ見残した所もありますので、またいつか四国を再訪したいと思っています。

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2018年5月 8日 (火)

四国お城巡り 松山城編その2

松山城では本丸内の天守周辺を本壇と呼んでいますが、天守曲輪の意味合いです。一の門は本壇への最初の防禦地点です。

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一の門を入った先にある二の門です。短い距離で門が連続し、しかも桝形となっていますので、ここを突破するのはかなり難しいのではないかと思われます。

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三の門です。

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三の門を進み、天守内側に入るための最後の関門となる筋鉄門です。

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天守群の内側から見た大天守と左側が内門で、右側が先ほど潜った筋鉄門です。良く見ると大天守と板張りの色が違っています。これは大天守を除く連結した櫓群が昭和8年の放火で焼けてしまい、昭和30年代になって再建されているからですが、大天守も1784年に落雷で焼失したものを1852年になって再建したものです。

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大天守から見下ろした、正面から乾櫓、手前に向かって乾門、乾門続櫓です。

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切妻部分の明り取りですが、防禦を考慮してか、閉め切ることができるようになっています。

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三ノ丸から見上げた天守群と馬具櫓、太鼓櫓と二ノ丸庭園。

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二ノ丸下にある黒門跡。大手道だけに立派な石垣が積まれています。手前は三ノ丸ですが、三ノ丸は公園となっており、遺構を見ることはできません。

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2018年5月 7日 (月)

四国お城巡り 松山城編その1

連休後半ど真ん中の4日に松山城に行きました。ロープウェイ横の東雲登城口まで、人混みを縫うようにして歩きましたが、それだけでこのお城の人気の高さが判ると言うものです。

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東雲口(しののめぐち)を上がってロープウェイの終点を過ぎると最初に目に入るのが巽櫓(たつみやぐら)です。松山城は山麓に二ノ丸、三ノ丸の広大な曲輪を巡らし、標高132mの山上に強固な本丸を備えた平山城ですが、重機の無かった時代には大変な工事だったと思われます。その為か、完成までに25年以上を費やしています。

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石垣に設けられた排水口。高知城では石垣から石樋を突き出していましたが、ここでは石垣表面を流すやり方をしています。

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黒門口からの登城路に設けられた大手門跡。防備に自信があったのか、石垣はそんなに高くありません。

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大手門からの登城路が折り返すように付けられ、戸無門(となしもん)へと続いています。

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戸無門下から見た天守です。

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筒井門横に設けられた小振りな隠門です。

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本丸への最後の関門となる太鼓門です。どの門も進行方向から直角に曲がった面に設けられています。

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本丸から見た小天守、大天守、一ノ門隅櫓です。松山城の天守は3層3階と低いので、こうして近くに寄ると他の建物の陰になってしまいます。

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一ノ門の内側。後方に小天守が見えています。

松山城編 その2に続きます。

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四国お城巡り 宇和島城編

築城の名手、藤堂高虎によって築かれた現在の宇和島城は築城当時は海に面しており、海水を引き込んだ堀を巡らしていましたが、現在は全て埋め立てられており、往時の姿は何処にも残っていません。

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搦手道口に建つ、宇和島市指定文化財の上り立ち門(のぼりたちもん)です。

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搦手道を上がった所にある代右衛門丸(だいえもんまる)の石垣です。本丸西側と南側の守りを固めていました。

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本丸北側を守る長門丸の上にある藤兵衛丸にある郷土資料館。三ノ丸にあった武器庫を移築したものです。

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三の門への石段と後方は本丸の石垣です。

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入り口反対側の南東側から見上げた天守。この天守は高虎が築いたものではなく、宇和島藩二代藩主の伊達宗利によって1666に建てられたものです。順光になるのはこちら側ですが、こちらまで回る人はほとんど見られませんでした。

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天守から北西方面。間近に海が見え、かつては海に面していたことが判ります。

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石垣の石に見られる不思議な模様。岩石が冷える過程でできたものなのか、それとも、その後に変化したものか想像が膨らみます。

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2018年5月 6日 (日)

四国お城巡り 高知城編

昨日早朝に四国を発って、当日の昼前に浜松に帰着しました。出先ではできなかった写真の整理ができたので、お城毎に紹介したいと思います。

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高知城追手門と天守。高知城は戦前に国宝に指定されていましたが、昭和25年の文化財保護法の施行によって現在は重要文化財の指定となっています。写真左側の石碑はその当時のものなので、国宝高知城と記されています。

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詰門と二ノ丸の石垣です。追手門から城内に入ると、石垣に沿って上がって行きますが、二ノ丸手前で詰門に突き当たります。二ノ丸へはそこを右に進むのですが、侵入した敵は詰門に向かうので周囲の櫓から集中攻撃を受けることになります。

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天守から見た本丸と二ノ丸。二ノ丸側に突き出して見えるのが詰門で、本丸側の出口に西多門、東多門がつながっています。

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手前側が本丸御殿で、天守とはつながっています。本丸御殿が現存している城は少なく、貴重な遺構です。

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本丸御殿内部。この欄間は波の形になっていますが、白壁に映った影を楽しんだのかも知れません。

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城主の謁見の間に作られた武者隠し。扉の向こうに精鋭の武者が控えていました。

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柱に鉄の板を貼った黒鉄門。この門を使えば直接本丸に入ることができました。

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本丸の石垣に作られた石の樋でできた排水溝。高知城は水はけが悪く、石垣の保護のため、築城の際に多くの石樋が作られました。

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発掘された長曾我部時代の石垣。長曾我部氏はこの地に城を築こうとしましたが、難航しているうちに改易となってしまいました。一豊はこの石垣の外側に石垣を築いたので、この石垣は地下に眠ることになってしまいました。

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二ノ丸手前から見た高知城天守。高知城は一豊が前任地の掛川城を偲んで築かれたとも言われていますので、静岡県民として一度は訪れたいと思っていましたが、今回念願が叶ったのはうれしい限りです。

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2018年5月 5日 (土)

お城3連発

昨日は足摺岬近くの道の駅に一泊。早朝に出発して一路宇和島城を目指しました。宇和島城は、元は海に面して海水を取り入れた堀を備えていましたが、今ではすっかり埋め立てられて往時の姿は残っていません。

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3の門から天守に通じる通路の途中から見た天守です。石垣造営の名人と言われた藤堂高虎が縄張りをしただけあって、見事な石垣群が城を守っています。この日はお城のイベントでテントが設営されており、折角の天守の景観にそぐわない風景となっていたのが残念でした。

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宇和島城の天守です。本丸はかなり狭い上に、立ち入りできる区域が制限されていますので、思うようなアングルでの撮影ができませんでした。

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多くの櫓や門が残っている松山城です。残念ながら、昭和初期の放火や第二次大戦の空襲によって消失してしまったものが多くありますが、戦後に木造で復元されており、連立式天守は重厚感があります。

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三の丸から見た二ノ丸と天守ですが、平山城の特徴が良く判ります。

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丸亀城の天守です。一日で3城を巡ったため、到着時には天守への入場時間が過ぎており、内部の様子は確認できませんでした。また、こちらでも城内でイベントが開かれており、十分な見学ができなかったのが残念でした。

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丸亀城は高石垣で有名ですが、その名に恥じない見事な石垣が残っています。

今回の旅では高知城、宇和島城、松山城、丸亀城の4城を訪れることができ、四国の空白域を減らすことができました。

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