2017年11月24日 (金)

木造名古屋城天守にエレベーターをの声

名古屋市が計画中の木造天守復元に際し、忠実に復元するためエレベーターを設置しない意向であることが明らかになりましたが、予想通り障害者の団体から設置を要望する声が上がりました。以下青い文字が中日新聞Web版からの引用です。

「公共建築物は、全ての人の利用が最優先されるべきだ」

ADFなどによると、腹筋などの弱い重度障害者は昇降機に乗れない。仮に乗れる人であっても、車いす利用者が団体で訪れた場合は、昇降機利用に時間がかかるため、天守見学は困難になる。

 辻事務局長は取材に「障害者だけでなく、高齢者やベビーカーの人も利用できなくなると問題だ。安心して楽しめる施設にしてほしい」と訴えた。

※ADF (障害者団体「愛知障害フォーラム」)

私はバリアフリー化は広く進展すべきとの立場ですが、この主張のいくつかについては同意できません。以下その理由です。

公共建築物は、全ての人の利用が最優先されるべきだ

名古屋城は1930年に当時の宮内省から名古屋市に寄贈されましたが、基本的に重要文化財を多数保有する文化財であり、復元天守も公共建築物ではなく文化財の一部で、公開には一定の制約も必要であって、「全ての人の利用が最優先されるべき」ものではないと考えます。

高齢者やベビーカーの人も利用できなくなる

ベビーカーが必要な時期に来訪する必然性が思い浮かびません。

車いす利用者が団体で訪れた場合は、昇降機利用に時間がかかるため、天守見学は困難になる

名古屋城は文化財であって娯楽施設ではありません。天守内部の見学が目的であるなら、トイレの利用なども考えますと車いす利用者が団体で天守内部を訪れる必然性があるとは思えません。

名古屋城の天守内部の詳細な構造を知り得ませんが、もし外観的、構造的に無理なくエレベーターを設置できる空間が存在するのであれば、当初竹中工務店が提案した4人用のエレベーターの設置が望ましいのかも知れません。

尚、私が過去訪問した木造復元の天守、および天守に準ずる建造物ではバリアフリー化は全くされていません。

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1991年に木造で復元された事実上の天守である白河小峰城の御三階櫓です。御三階櫓と言うのは幕府が天守の造営を禁止していたため、天守ではなく櫓で申請したもので、国宝の弘前城の御三階櫓もこの類です。写真左側に御三階櫓への石段がありますが、手すりのみで車いすでは上がれません。

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本丸手前の石段。ここもスロープがありませんので、車いすで通ることはできません。

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1994年に鹿島建設によって木造で復元された初の天守となった掛川城です。ここも天守の入り口に石段があり、車いすでの見学はできません。

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木造復元された掛川城天守内部。急な階段が再現されています。

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昨年の熊本地震で大きく損壊し、現在修復中の2005年に木造復元された熊本城の飯田丸五階櫓です写真は地震前の2015年6月に撮影したものです。出入口は右側の階段のみで、車いすでの入場はできません。

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飯田丸五階櫓の内部です。左奥に階段がありますが、急な作りで当時のものを再現しています。

以上のケースを見ますと、城としての立地を尊重し、必要以上の手を加えていないように思われます。ただ、建設当時と現在とでは社会的な状況が変わっていますので、今現在の視点も必要かも知れません。一方でIT技術も進歩していますので、資料館のような所でバーチャルリアルリティで精密な映像を上映したり、構造物の模型やコピー品を展示することで、実際に入場しなくて見学できる方法も考えられて良いのではないかと考えます。

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2017年11月19日 (日)

鳥羽山・二俣城跡が国の史跡に

国の文化審議会は浜松市天竜区(旧天竜市)にある鳥羽山、二俣城跡を国史跡として登録するよう林文科大臣に答申を行いました。

二俣城跡は、徳川家康の長男の信康が武田氏との内通を疑われ、切腹して果てた城として知られていますが、そもそも今川・徳川・武田とその領有をめぐって幾度となく攻防が繰り広げられた歴史を持った重要な場所です。

二俣城は最終的に家康が領有することとなったのですが、小田原攻めの結果、天下の覇者となった秀吉によって、家康は関東の地に遠ざけられることになりました。家康の後に浜松城・二俣城の城主となったのは、秀吉の重臣だった堀尾吉晴で、吉晴によって浜松城も二俣城も石垣が築かれました。

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二俣城本丸に築かれた天守の石垣。天守は城の西側の天竜川が見下ろせる位置に築かれましたが、これは吉晴が新たな支配者として君臨していることを天竜川を船で通行する人々に見せつけるためで、恐らくは秀吉の意向だったろうと考えられます。

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イベントでベニヤ板で再現された天守です。浜松城を一回り小さくしたような外観だったのではないかと思われます。

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天守の石垣は最上部が正方形ではなく、内側に湾曲したアーチ状となっています。これは上に建築物が載った際に重みで石垣が膨らみ、外側に崩れないように工夫したもので、このことからも当時の最先端の技術が使われたことが覗えますが、そのようなことができたのは秀吉を置いて考えられません。

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城内からの出土品。瓦が見つかっていますので、瓦ぶきの建物があったことは間違いありません。天竜市の時代は十分な調査が行われていませんでしたが、浜松市と合併後は継続して発掘調査が行われ、戦国時代の城としての評価が高まっていました。

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中腹の雑木林の中に埋もれていた石垣。この石垣もどちらかと言えば見せるための目的で築かれたものと考えられています。

これまで、華やかさとは無縁のさびれた古城のイメージでしたが、正式に国史跡となれば、多くの見学者を迎えることになるのではないかと思われます。

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2017年11月18日 (土)

木造名古屋城天守にエレベーターは設置しない方針

名古屋城天守の木造化に向け、現在発掘調査が行われていますが、16日に開かれた木造化についての有識者会議で、バリアフリーの問題が討議されました。この中で名古屋市は、江戸時代に築城された当時の姿をできるだけ忠実に再現するため、復元の際にエレベーターを設置しない方針を明らかにしました。ただ、障害者や高齢者への配慮として座ったまま昇降ができる、階段昇降機を設置し、各階ごとに利用できる車いすを用意することとしています。

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現在の名古屋城の入場通路。内部にはエレベーターが設置されていますが、入り口に石段があるためここからは入場できず、天守外部に設置された外部エレベーターの利用が必要です。

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名古屋城天守外側に設置された外部エレベーター。外観を大きく損なっています。

木造復元天守にエレベーターを設置しないことは、今後論議を呼ぶ可能性がありますが、私は英断だと評価します。城郭は文化財であり、木造復元は当時の姿を再現することに意義があります。できれば、できるだけ多くの見学者の利用を図るのが望ましいのですが、娯楽施設ではありませんので利便性を最優先することはできません。

現存する木造天守のある他の城でも、天守内部の昇降は当時の階段に限られており、車いすでの見学はできません。姫路城で、車いすの介助者がこのことを知らずに、現場で入場できないと聞かされて落胆している姿を目撃したことがありますが、文化財の保全と安全確保のためには仕方のないことだと考えます。

名古屋城に関しては代替手段が講じられるようですから、できればこの方針を貫いて欲しいものだと思いますが、木造化については2018年7月に全体の基本構想を決定することになっています。

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2017年10月 3日 (火)

名古屋城に初登城 その4

名古屋城シリーズの最終編です。名古屋城は戦災で主要な建造物を失ってしまいましたが、国宝に指定されていたこともあって、多くの測量図や写真が資料として残されました。現在木造復元中の本丸御殿も、こうした資料がなければこのような形で復元することができたか大いに疑問です。名古屋城は文化財についての図面や精密写真をきちんと管理することの重要さについても、私たちに重要な示唆をしてくれているのではないでしょうか。

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復元された本丸御殿の南正面です。二条城の二之丸御殿と比べると当然のことですが、真新しい感じがします。

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藩主に謁見する客人の控えの間であった玄関一之間と二之間です。狩野派の襖絵(模写)が客人を圧倒します。

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玄関一之間です。展示品の撮影は自由ですが、ストロボの使用は禁止されていますので、低速シャッターでの撮影です。

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表書院の一之間から上段の間を見通して。表書院は藩主と家臣の謁見に使用された場所で、上段之間の藩主に一之間の藩士が御目通りする体裁となっています。

さて、今回名古屋城を訪問するに当たって、天守や本丸御殿について調べましたが、その中で木造による復元については、オリジナルではないので文化財としての価値はないとの意見が見られました。しかし、明治初頭の西南戦争で焼失した熊本城の復元天守に対して、熊本市民が深い愛着を感じているのを見ますと、より創建当時の工法で復元することにも大きな意味があるのではないかと思えてなりません。

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これは浜松市にある二俣城の一夜天守です。二俣城は家康が遠江進出で手に入れた浜松城の支城の位置づけの城ですが、武田の南下によって激しい争奪戦を繰り広げた城です。家康が駿府に移された後、豊臣の重臣堀尾吉晴が浜松城と二俣城の城主となり、天守を持った石垣の城に作り替えたと見られています。

あるイベントで現在は失われた天守を復元したものですが、例えベニヤ造りでもこうして実体があると、天守が持つ重みを感じられるような気がします。

また、木造復元よりも石垣の修復を優先させるべきとの意見もありますが、本体工事と合わせて行う修復プランで、何ら問題はないと思います。

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これは木造復元された浜松城の天守門ですが、建物の重さは一切石垣にかかっていません。

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天守門の工事中の写真です。フェンスの中の中央の白い部分が、石垣上に新たに作られたコンクリート製の基礎部分で、建物の重量は全て基礎部分が受け止めるので、石垣には負担がかかりません。従って、必要になった時にいつでも補修工事を行うことができますので、石垣の補修を待って工事に着手する必要はないものと考えます。

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2017年10月 2日 (月)

名古屋城に初登城 その3

関ヶ原の戦いの後、大阪方への防禦の城として徳川家康の命によって築かれた名古屋城は、大小天守と櫓、門、御殿などが明治期まで現存し、国宝に指定されましたが、昭和20年5月14日の空襲によってほとんどの建物を焼失してしまいました。文化財としての名古屋城は戦争遂行に何の寄与もしない存在であったのに、敢えて空襲目標として爆撃した米国の野蛮な行為について、世界的な文化財に対する犯罪行為として強く非難します。

名古屋城天守には焼失前の貴重な写真が展示されています。今回はカメラに収めた展示されていた写真を中心に紹介したいと思います。

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名古屋城の本丸から御深井丸にかけての航空写真です。本丸東門に焼失前の櫓門の東一之門があるのが判ります。

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表二之門付近から見た大天守です。表二之門の左右に多門櫓が建っていたことが判ります。

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御深井丸方面から見た大天守です。

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焼失前の大天守1階の内部写真です。名古屋城は戦前に国宝に指定されていたことから、精密な測量が行われて内部構造の詳細な図面やこのような写真が豊富に残されており、木造復元を可能としました。

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貴重な文化遺産であるにも関わらず、米軍の焼夷弾攻撃を受け、紅蓮の炎に包まれて炎上する名古屋城大天守です。

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大小の天守が焼け落ち、石垣のみが残った本丸の写真です。この写真を見る限り、石垣は少しも崩れることなく天に向かって聳えています。

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西之丸南側の石垣に残る瓦の破片です。石垣上にあった土塀が焼けた際に落ちた瓦が埋もれたものと思われます。

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大天守の石垣の東側と西側から撮った写真の比較です。上が西側、下が東側から撮ったものです。上の写真の左側の石垣が大天守、右側の写真が小天守です。

大天守は炎上した際に、西側の堀に崩れ落ちて石垣を焦がしたそうです。今回、空襲によって大天守の石垣がどのような損傷を受けたのか調べようとしましたが、確たる記録は発見できませんでした。しかしながら、小天守の石垣と見比べると、明らかに大天守西側の石垣には違和感を感じます。下の東側の写真と比べても石の状態が違っているように感じました。鉄筋コンクリートで再建する時に、焼けた石材を新しい石材で修復したのではないかと思われます。

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御深井丸東端にある天守の礎石の現物です。鉄筋コンクリートで天守を再建する時に石垣上からこの場所に移設され、展示されているもので、実際の天守の礎石を初めて見ることができました。

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2017年10月 1日 (日)

名古屋城に初登城 その2

前回は名古屋城の天守を違った角度から見てみましたが、今回は櫓と門です。名古屋城は昭和20年の空襲で主要な建物を焼失してしまいました。戦争遂行と全く関係ない貴重な文化財を、焼夷弾で焼き尽くした米国の蛮行は強く非難されるべきだと思います。

戦争によって江戸時代に建てられた天守や本丸御殿は焼け落ちてしまいましたが、それでも隅櫓や門の一部は火災を免れて今日に残ることができました。訪問客の多くは豪壮な天守に目が向きがちですが、こうした遺構にも注目したいと思います。

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本丸西南の重文の未申(ひつじさる)櫓です。平成22年から26年にかけて解体修理を行いましたので、きれいな外観をしています。

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写真をクリックして右側の鯱の下の紋瓦に注目してください。お城なのに菊の紋章が付いています。これは明治期に宮内省(当時)が修理を行った際の名残です。

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西之丸から本丸へ通じる重文の表二之門です。保護のため鉄板でガードされているのが残念でした。

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本丸東南隅櫓の重文の辰巳櫓です。未申櫓と同じ構造ですが、破風の形が若干違っています。後方に見えるのが表二之門です。

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本丸東二之門に建つ二之丸から昭和47年に移築された東鉄門(ひがしくろがねもん)です。後方の高い石垣は東一之門跡の桝形です。

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東二之門の本丸側です。門の両脇にあるのが本来の門の石垣です。かつてはこの石垣の上に堅固な門が築かれていました。

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東一之門の跡です。清正石は左側に石垣の中央付近にあります。案内板の後方、通路左側の手前よりの所に門の心柱と思われる石が確認できました。

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本丸から御深井丸(おふけまる)に通じる不明門。不明門を抜けて東に進むと天守が望めるポイントがありそうですが、現在石垣修理中との理由で通行止めとなっており、確認することができませんでした。石垣上部の樹木は景観の邪魔なので剪定して欲しいものです。

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西北隅櫓の重文の戌亥櫓(いぬいやぐら)です。清州櫓とも呼ばれているのは清州城の天守を移築したからと言われているからですが、確かに隅櫓とは思えない石落としを持った三層構造で、他の城の御三階櫓に匹敵する規模です。

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2017年9月30日 (土)

名古屋城に初登城

その昔、名古屋勤務時代には毎日のように名古屋城の横を車で通っていましたので、却って訪問する機会がありませんでしたが、天守の木造復元の計画が現実のものとなって来ましたので工事が始まる前にと、本日思い切って出かけて来ました。何回かに分けてその様子を紹介したいと思います。

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名古屋城西ノ丸にある復元された正門です。入場は午前9時からですが、開門を待つ人が列を作り始めていました。

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小天守西側から見た天守です。

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本丸内堀の底に縄張りがしてありました。これは復元工事前の石垣周辺の埋蔵物の調査のためのマーキングと思われます。

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名古屋城と言えば真っ先に名前が浮かぶのが加藤清正ですが、清正の名前が付いた城内一の大石です。

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本丸御殿北側から見た天守です。かつては小天守と連立する姿が見られたようですが、現在は新たな建築物で視界が遮られてしまい、この角度からがベストポジションのようです。

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同じ場所から横位置で。

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天守へ上がるには、一旦小天守に入って土塀で囲まれた通路を通らないと辿り着くことができない構造となっています。向かって左側の土塀外側には侵入防止の槍の穂先が植えられています。

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びっしりと植えられた槍の穂先です。

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お馴染みの金の鯱です。

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二の丸広場から見た天守です。何とか東側から天守を写そうと、あちこちをウロウロしたのですが、見晴らしの良さそうな場所は石垣の修復工事で立ち入りが規制されていたりと、撮影場所が制限されてしまいました。

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それではと、お堀の北東側から狙ってみましたが、植生が邪魔してこんな程度です。幕藩時代は木々が繁茂することなど有り得ませんでしたので、もう少し手を入れても良いのではと感じました。

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2017年9月22日 (金)

文化庁が名古屋城天守の石垣調査を許可

名古屋市は名古屋城の天守を木造で復元する計画を進めていますが、事前に石垣の調査をする必要があり、文化庁に石垣調査の申請をしていましたが、15日付で調査が許可されました。

名古屋城は豊臣家に対する備えの城として関ケ原の戦いの後に築かれ、その威容を誇ったまま明治迎えました。その後1930年に国宝に指定され、正確な測量が行われましたが、1945年5月の空襲により天守以下主要な建造物を消失してしまいました。その後天守は1959年に鉄筋コンクリートで再建されましたが、本丸御殿が木造で復元されたことで、天守の木造復元の機運が再び高まり、河村市長の推進もあって木造復元が現実のテーブルに上ることになっていました。

名古屋市は木造復元工事を担当する竹中工務店と協力して、今年の10月から来年の1月にかけて石垣の安定性や天守周辺の遺構の有無を調査することにしていますが、これとは別に石垣の裏側についても構造が劣化していないか調査することにしています。

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国宝松本城の現存木造天守です。木造ながらの歴史の重みを感じる外観ですが、名古屋城の天守が木造でよみがえる日が今から楽しみです。

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