2017年10月 3日 (火)

名古屋城に初登城 その4

名古屋城シリーズの最終編です。名古屋城は戦災で主要な建造物を失ってしまいましたが、国宝に指定されていたこともあって、多くの測量図や写真が資料として残されました。現在木造復元中の本丸御殿も、こうした資料がなければこのような形で復元することができたか大いに疑問です。名古屋城は文化財についての図面や精密写真をきちんと管理することの重要さについても、私たちに重要な示唆をしてくれているのではないでしょうか。

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復元された本丸御殿の南正面です。二条城の二之丸御殿と比べると当然のことですが、真新しい感じがします。

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藩主に謁見する客人の控えの間であった玄関一之間と二之間です。狩野派の襖絵(模写)が客人を圧倒します。

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玄関一之間です。展示品の撮影は自由ですが、ストロボの使用は禁止されていますので、低速シャッターでの撮影です。

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表書院の一之間から上段の間を見通して。表書院は藩主と家臣の謁見に使用された場所で、上段之間の藩主に一之間の藩士が御目通りする体裁となっています。

さて、今回名古屋城を訪問するに当たって、天守や本丸御殿について調べましたが、その中で木造による復元については、オリジナルではないので文化財としての価値はないとの意見が見られました。しかし、明治初頭の西南戦争で焼失した熊本城の復元天守に対して、熊本市民が深い愛着を感じているのを見ますと、より創建当時の工法で復元することにも大きな意味があるのではないかと思えてなりません。

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これは浜松市にある二俣城の一夜天守です。二俣城は家康が遠江進出で手に入れた浜松城の支城の位置づけの城ですが、武田の南下によって激しい争奪戦を繰り広げた城です。家康が駿府に移された後、豊臣の重臣堀尾吉晴が浜松城と二俣城の城主となり、天守を持った石垣の城に作り替えたと見られています。

あるイベントで現在は失われた天守を復元したものですが、例えベニヤ造りでもこうして実体があると、天守が持つ重みを感じられるような気がします。

また、木造復元よりも石垣の修復を優先させるべきとの意見もありますが、本体工事と合わせて行う修復プランで、何ら問題はないと思います。

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これは木造復元された浜松城の天守門ですが、建物の重さは一切石垣にかかっていません。

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天守門の工事中の写真です。フェンスの中の中央の白い部分が、石垣上に新たに作られたコンクリート製の基礎部分で、建物の重量は全て基礎部分が受け止めるので、石垣には負担がかかりません。従って、必要になった時にいつでも補修工事を行うことができますので、石垣の補修を待って工事に着手する必要はないものと考えます。

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2017年10月 2日 (月)

名古屋城に初登城 その3

関ヶ原の戦いの後、大阪方への防禦の城として徳川家康の命によって築かれた名古屋城は、大小天守と櫓、門、御殿などが明治期まで現存し、国宝に指定されましたが、昭和20年5月14日の空襲によってほとんどの建物を焼失してしまいました。文化財としての名古屋城は戦争遂行に何の寄与もしない存在であったのに、敢えて空襲目標として爆撃した米国の野蛮な行為について、世界的な文化財に対する犯罪行為として強く非難します。

名古屋城天守には焼失前の貴重な写真が展示されています。今回はカメラに収めた展示されていた写真を中心に紹介したいと思います。

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名古屋城の本丸から御深井丸にかけての航空写真です。本丸東門に焼失前の櫓門の東一之門があるのが判ります。

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表二之門付近から見た大天守です。表二之門の左右に多門櫓が建っていたことが判ります。

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御深井丸方面から見た大天守です。

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焼失前の大天守1階の内部写真です。名古屋城は戦前に国宝に指定されていたことから、精密な測量が行われて内部構造の詳細な図面やこのような写真が豊富に残されており、木造復元を可能としました。

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貴重な文化遺産であるにも関わらず、米軍の焼夷弾攻撃を受け、紅蓮の炎に包まれて炎上する名古屋城大天守です。

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大小の天守が焼け落ち、石垣のみが残った本丸の写真です。この写真を見る限り、石垣は少しも崩れることなく天に向かって聳えています。

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西之丸南側の石垣に残る瓦の破片です。石垣上にあった土塀が焼けた際に落ちた瓦が埋もれたものと思われます。

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大天守の石垣の東側と西側から撮った写真の比較です。上が西側、下が東側から撮ったものです。上の写真の左側の石垣が大天守、右側の写真が小天守です。

大天守は炎上した際に、西側の堀に崩れ落ちて石垣を焦がしたそうです。今回、空襲によって大天守の石垣がどのような損傷を受けたのか調べようとしましたが、確たる記録は発見できませんでした。しかしながら、小天守の石垣と見比べると、明らかに大天守西側の石垣には違和感を感じます。下の東側の写真と比べても石の状態が違っているように感じました。鉄筋コンクリートで再建する時に、焼けた石材を新しい石材で修復したのではないかと思われます。

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御深井丸東端にある天守の礎石の現物です。鉄筋コンクリートで天守を再建する時に石垣上からこの場所に移設され、展示されているもので、実際の天守の礎石を初めて見ることができました。

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2017年10月 1日 (日)

名古屋城に初登城 その2

前回は名古屋城の天守を違った角度から見てみましたが、今回は櫓と門です。名古屋城は昭和20年の空襲で主要な建物を焼失してしまいました。戦争遂行と全く関係ない貴重な文化財を、焼夷弾で焼き尽くした米国の蛮行は強く非難されるべきだと思います。

戦争によって江戸時代に建てられた天守や本丸御殿は焼け落ちてしまいましたが、それでも隅櫓や門の一部は火災を免れて今日に残ることができました。訪問客の多くは豪壮な天守に目が向きがちですが、こうした遺構にも注目したいと思います。

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本丸西南の重文の未申(ひつじさる)櫓です。平成22年から26年にかけて解体修理を行いましたので、きれいな外観をしています。

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写真をクリックして右側の鯱の下の紋瓦に注目してください。お城なのに菊の紋章が付いています。これは明治期に宮内省(当時)が修理を行った際の名残です。

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西之丸から本丸へ通じる重文の表二之門です。保護のため鉄板でガードされているのが残念でした。

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本丸東南隅櫓の重文の辰巳櫓です。未申櫓と同じ構造ですが、破風の形が若干違っています。後方に見えるのが表二之門です。

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本丸東二之門に建つ二之丸から昭和47年に移築された東鉄門(ひがしくろがねもん)です。後方の高い石垣は東一之門跡の桝形です。

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東二之門の本丸側です。門の両脇にあるのが本来の門の石垣です。かつてはこの石垣の上に堅固な門が築かれていました。

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東一之門の跡です。清正石は左側に石垣の中央付近にあります。案内板の後方、通路左側の手前よりの所に門の心柱と思われる石が確認できました。

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本丸から御深井丸(おふけまる)に通じる不明門。不明門を抜けて東に進むと天守が望めるポイントがありそうですが、現在石垣修理中との理由で通行止めとなっており、確認することができませんでした。石垣上部の樹木は景観の邪魔なので剪定して欲しいものです。

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西北隅櫓の重文の戌亥櫓(いぬいやぐら)です。清州櫓とも呼ばれているのは清州城の天守を移築したからと言われているからですが、確かに隅櫓とは思えない石落としを持った三層構造で、他の城の御三階櫓に匹敵する規模です。

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2017年9月30日 (土)

名古屋城に初登城

その昔、名古屋勤務時代には毎日のように名古屋城の横を車で通っていましたので、却って訪問する機会がありませんでしたが、天守の木造復元の計画が現実のものとなって来ましたので工事が始まる前にと、本日思い切って出かけて来ました。何回かに分けてその様子を紹介したいと思います。

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名古屋城西ノ丸にある復元された正門です。入場は午前9時からですが、開門を待つ人が列を作り始めていました。

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小天守西側から見た天守です。

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本丸内堀の底に縄張りがしてありました。これは復元工事前の石垣周辺の埋蔵物の調査のためのマーキングと思われます。

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名古屋城と言えば真っ先に名前が浮かぶのが加藤清正ですが、清正の名前が付いた城内一の大石です。

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本丸御殿北側から見た天守です。かつては小天守と連立する姿が見られたようですが、現在は新たな建築物で視界が遮られてしまい、この角度からがベストポジションのようです。

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同じ場所から横位置で。

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天守へ上がるには、一旦小天守に入って土塀で囲まれた通路を通らないと辿り着くことができない構造となっています。向かって左側の土塀外側には侵入防止の槍の穂先が植えられています。

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びっしりと植えられた槍の穂先です。

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お馴染みの金の鯱です。

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二の丸広場から見た天守です。何とか東側から天守を写そうと、あちこちをウロウロしたのですが、見晴らしの良さそうな場所は石垣の修復工事で立ち入りが規制されていたりと、撮影場所が制限されてしまいました。

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それではと、お堀の北東側から狙ってみましたが、植生が邪魔してこんな程度です。幕藩時代は木々が繁茂することなど有り得ませんでしたので、もう少し手を入れても良いのではと感じました。

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2017年9月22日 (金)

文化庁が名古屋城天守の石垣調査を許可

名古屋市は名古屋城の天守を木造で復元する計画を進めていますが、事前に石垣の調査をする必要があり、文化庁に石垣調査の申請をしていましたが、15日付で調査が許可されました。

名古屋城は豊臣家に対する備えの城として関ケ原の戦いの後に築かれ、その威容を誇ったまま明治迎えました。その後1930年に国宝に指定され、正確な測量が行われましたが、1945年5月の空襲により天守以下主要な建造物を消失してしまいました。その後天守は1959年に鉄筋コンクリートで再建されましたが、本丸御殿が木造で復元されたことで、天守の木造復元の機運が再び高まり、河村市長の推進もあって木造復元が現実のテーブルに上ることになっていました。

名古屋市は木造復元工事を担当する竹中工務店と協力して、今年の10月から来年の1月にかけて石垣の安定性や天守周辺の遺構の有無を調査することにしていますが、これとは別に石垣の裏側についても構造が劣化していないか調査することにしています。

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国宝松本城の現存木造天守です。木造ながらの歴史の重みを感じる外観ですが、名古屋城の天守が木造でよみがえる日が今から楽しみです。

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