2019年7月22日 (月)

IAEAの天野事務局長が死去

イランが核合意からの離脱の動きを強める中、核兵器の開発に睨みを利かしているIAEA(国際原子力機関)の存在感が増していますが、本日、IAEAのトップを務める天野事務局長が今月18日に死去していたとIAEAが明らかにしました。天野氏については、このところ体調がすぐれず、近く辞任するのではないかと報じられていましたので、既に亡くなっていたことは驚きでした。

天野氏は外務省の出身ですが、その経歴を生かして核疑惑国への難しい査察を実施しており、堅実な手腕は高く評価されていました。天野氏は非核保有国である日本出身であることを生かして、相手を過度に刺激することなく公正な立場を貫いたことが、相手国からも評価されたのではないかと思われます。天野氏は、国際機関のトップで活躍する数少ない日本人でしたが、物腰は穏やかで、権威をひけらかす様なことはありませんでした。任期は2021年の12月まででしたので、道半ばで、職務を離れることは断腸の思いだったろうと推察します。謹んで、ご冥福をお祈りいたします。

 

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2012年2月 4日 (土)

浜松城入場者が増加

浜松城は今川氏の人質から脱した徳川家康が遠江支配の拠点とし、駿府に移るまでの16年間在城した戦国の城で、その後家康が天下人となったことから出世城と呼ばれています。また、NHKの大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」で一躍その存在がクローズアップされた徳川2代将軍、秀忠が生まれた城としても知られています。その浜松城の昨年1月から12月までの天守への入場者数が16万3500人と過去最高であったことが明らかになりました。これまでの最高は2009年の14万3200人でしたので、これよりも2万人以上多い来場者となった訳で、大河ドラマ効果の賜物と言えるのではないでしょうか。

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そんなニュースに水を差すようで申し訳ないのですが、写真の現在の天守に物言いです。浜松城は明治初期に廃城になるまで、浜松藩主の居城として機能していましたが、天守は築城から早い段階で失われていました。戦後市民の浄財により、現在のコンクリート製の天守が建てられ現在に至っていますが、どう見ても土台の石垣部分とマッチしていません。国宝の彦根城が大津城から移築された際に本来よりも階数を減らされてバランスの悪い外観になったように、史実に基ずかない上に高さが低すぎ、そもそも大きさが石垣部分よりも二回りくらい小さくなっています。天守についてはほとんど記録が残っていないようですから、仕方がない面もあるのですが、あまりに現存する石垣との乖離が酷過ぎます。また写真右側の石垣が出っ張って見える部分は本来天守入り口となる付櫓(つけやぐら)ですが、これも全く無視されています。

天守台には近く天守門が再建される予定となっていますが、そうなると余計天守の正当性が問題となります。残された石垣にできるだけ忠実な姿の天守が再建されることが望ましいことは言うまでもありません。遠方からの来場者に現在の天守が家康が君臨した浜松城のそれだと思われないよう、何らかの表示をするとともに、より石垣に沿った規模の天守の建造を望みたいと思います。

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2011年11月23日 (水)

立川談志ついに逝く

家元制度の実践など、破天荒な落語家の立川談志師匠が亡くなりました。10年以上前からガンとの闘病を続けており、一時高座から遠ざかっていた時期もありましたが、最近は顔を見る機会も増えていたように思いましたので、訃報を聞いてそこまで悪かったのかと正直驚きました。

落語家として類まれな優れた資質を備えていましたが、それが表に出てしまって自信に満ちた言動が目立ち、かつて笑点の司会をしていた頃にはそれが鼻につきました。しかし病に倒れてからは己の弱さを見せることが増えたような気がしていました。多くのファンから大御所として期待された志ん朝が早くになくなった後は、当代随一の名人として大いに期待された存在でしたが、残念でなりません。批判を浴びることが多かった半面、志の輔など多くの弟子を育て上げたのは、人一倍落語を愛し、落語会の行く末を案じていたからだと思います。ご冥福をお祈り致します。

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2011年7月15日 (金)

「下町ロケット」が直木賞受賞

先日宇宙ネタで取りあげた、池井戸潤氏の「下町ロケット」が145回直木賞を受賞しました。我が国の工業を支える中小企業の底力は折に触れて高く評価されますが、この作品は中小企業が持つ最先端技術が大企業との軋轢の果てに宇宙ロケットに採用されるまでの人間ドラマを描いたもので、週刊誌に連載中から注目していた作品です。

池井戸氏は銀行出身ということで、この作品にも主要人物として銀行出身者が登場していますが、単なるビジネスものを超えた作品だと思いますので、これを機に一読されることをお薦めします。

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2011年1月13日 (木)

浜松城天守門が復元へ

浜松城は存亡をかけて武田氏と攻防を繰り広げた、若き日の徳川家康の居城として知られていますが、現在では鉄筋コンクリート製の復興天守しか現存せず、野面積みの石垣だけが残されています。最近各地で木造建築による城郭の復元が盛んに行われるようになりましたが、浜松市も発掘調査によって遺構が確認された天守門と富士見櫓について復元させる意向を表明していました。

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天守門跡から見上げる復興天守。残念ながら資料が残っていないので当時どのような天守が建てられたのか知る由もありませんが、家康の後に城主となった堀尾吉晴が築いた松江城の元になったのではないかと勝手に推測しています。

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天守台から本丸方面を見て。

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2009年の天守門の発掘調査の様子。礎石の他に排水溝と見られる瓦敷きが見つかりました。

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発掘時の遺構の写真。発掘調査発表会での展示パネルを撮影したものです。

浜松市は12日の市議会建設委員会で、天守門については2011年度設計着手、13年度までに整備、富士見櫓は16年度に着手し20年度までに整備する方針を示しました。文化庁は最近では国の指定を受けた城跡について、史実に基づかない再建は認めない方針のようですが、絵図などの資料の乏しい浜松城の場合はどうしても推測に寄らざるを得ないのではないかと思われます。

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再建された臼杵城の大門です。浜松城の天守門は幅が12mだったことが分かっていますが、安政年間に描かれた略絵図から見ておそらくこのような築様式ではなかったかと思われます。築城後の早い時期に天守が消失してしまった後は高くそびえる天守門が城のシンボルとして代用されたと言うことですからもう少し装飾性があったのかも知れません。

工事中は城内の探訪も一部制約されると思われますが、一日も早く完成した大手門を見たいものです。

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2010年9月28日 (火)

伝統美

我が国では実用の中にも美しさを追い求めてきました。例えば、風呂敷はただの1枚の布切れですが、実に多彩で美しいフォルムを提供してくれます。手ぬぐいも同じです。本来手や体を拭く為の1枚の布ですが、こんな美しさも持っています。

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祇園祭りで寄付金集めに売られている手ぬぐいですが、室内装飾用として立派に通用しています。

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こちらは上棟式で撒かれた手ぬぐいですが、松竹梅と鶴と亀、目出度いものを染め上げていて、最早単なる布ではなくなっています。最近ではバンダナが服飾用として良く使われていますが、美的感覚からすれば手ぬぐいの方が歴史が長い分だけ上回っているように思います。

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2010年4月14日 (水)

姫路城大修理開始

世界遺産に登録されている、国宝の姫路城の大天守が平成の大修理として5年間の工事に入りました。漆喰壁の塗り直しや軒やひさしの傷みや汚れを修復するため、12日から工事完了まで天守への入場ができなくなりました。工事の間は天守に素屋根をかけ、周囲に足場を組むので、当分の間天守を遠望することは出来なくなります。ただし工事中もそれ以外のエリアは従来通りに入場ができますので、他の構築物を見学するか工事の様子を遠くから眺めることになります。

以下は昨秋、修理前の姿を写したものです。

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堀の周囲はたくさんの桜の木が植えられており、橋が入る場所を見つけるのに苦労しました。

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連立式の天守群は勇壮としか言いようがありません。

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漆喰壁が多用されており、白亜の形容がうなずけますが、白鷺城とは良くぞ名付けたものです。

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2009年12月 6日 (日)

浜松城再び

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徳川家康が天下人になる直前まで居城としていた浜松城は、その後城主が目まぐるしく変わったこともあって、城の詳細についての記録がほとんど残っていません。明治の廃城令まで主要な構造物が残されていたにもかかわらず、細密な絵図はおろか城郭を撮影した写真が一枚も伝わっていないようなのです。現在ある天守は戦後に鉄筋コンクリートで建てられたものですが、平面は石垣の平面よりも小さくなっており、高さも石垣の規模にしては低いものになっています。

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富士見櫓跡の発掘現場。浜松市は数少ない資料からその存在が明らかとなっている富士見櫓と天守門を復元する計画で、構造や規模を確認するために廃城以来初めてとなる発掘を行いました。発掘結果から櫓の名前に似つかわしくなく、どうも数寄屋風の作りだったのではないかと思われる遺構が確認されました。富士見櫓は天守台東側にある本丸を取り巻く石垣上に築かれていました。

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この週末に発掘説明会が開かれたので、天気を気にしながら出かけました。現地の一角に出土品が展示されていました。今後、出来るだけ元の形に近づけるように復元作業が行われるそうです。

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出土した家紋入りの瓦片。家紋から家康以後の城主のものと判明しています。発掘結果は事前にマスコミ発表されていたのですが当日も記者が訪れていて、なぜか説明会の終了後に突然取材されてビックリしました。

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天守台北側の日本庭園。この一帯は戦後動物園となっていましたが、手狭となって移転し、城跡にふさわしく庭園が築かれたものです。

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日当たりの関係か、この辺りではようやく紅葉が色づき始めていました。

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2008年9月28日 (日)

芸術の秋

原油高騰で漁業関係者が出漁回数を減らす防衛策を取るなどして水産品の値上がりが心配される作近ですが、今年は秋の魚サンマが豊漁のようです。秋の味覚と言えば庶民にとっては何と言ってもサンマが代表格です。そして食欲の秋とともに並び称されるのが芸術の秋です。

古くからの友人が浜松グランドホテルで油絵の個展を開くというので、土日の両日覗きに行って来ました。ギャラリーとは違って照明が行き届かないのは残念ですが、さすが一流ホテルだけあって多くの人に見てもらうことが出来ました。作品は彼がユニセフを通じて支援しているセネガルの風景や地元を中心とした風景画、静物の小品などでしたが、売れ行きの方もまあまあのようです。生臭い浮世の喧噪を忘れて、しばし絵画の世界に浸ってみるのもたまにはいいものですね。

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