旅の拾いもの

名物に旨いものなしとは良く言われますが、旅先で思いがけず旨いものに巡り合うのはうれしいものです。逆に評判を聞いて訪ねてみたらトンデモない店だったということも無きにしもあらずで、初めての店で食事をする時は味を楽しむ前に変な緊張感を味わったりしてしまいます。

先日、京都・奈良を巡った折に室生寺を詣でました。ここもアクセスの問題でなかなか訪れることができなかった所です。以前台風の被害で国宝の五重の塔が破損した時は、未訪問 を後悔したものですが、その後もつい後回しにしてやっと今回訪れることができました。

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太鼓橋から表門、本坊。女人高野 室生寺の石柱が目を引きました。

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鎧坂を上がった所にある国宝の金堂(平安初期)。国宝、重文の仏像が多数安置されています。

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見事に修復されて、どこが破損箇所か判らなかった国宝の五重の塔。

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奥の院に続く石段。女人高野の名に恥じない雰囲気でした。

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太鼓橋の手前にある旅館中村屋の定食(5品、1600円)。オフシーズンなので日曜なのに閉まったままの店もあり食事場所を決めるのに迷いました。結局くつろげそうなのが決め手でここに入ったのですがビンゴでした。今までずい分食べ歩きをしましたが、外れの品が一つもないのに驚きました。普通この手の物は手間を省くために、作り置きをしたり、出来合いを使ったりするものですが、全てに丁寧な仕事がしてあり流石老舗旅館と感心しました。食事をするためだけに訪れても損はないと思います。

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フォトギャラリー 大和長谷寺

花灯路の翌日は奈良に移動して、こちらも懸案だった長谷寺を参詣しました。長谷寺は初夏の牡丹で有名ですが・・・・。

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じゃ~ん♪藁帽子をかぶった寒牡丹。花を付けていたのはこの1株だけでした。

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古刹にふさわしい仁王門。

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長谷寺と言えば長い登廊と吊り下げられた独特の長谷寺型の灯篭です。

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月輪院。何故かこの石段にだけ竹垣が設けられていました。ゆるやかなカーブが何とも言えません。

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大きな舞台が張り出している国宝の本堂。身の丈10mを超える国宝の十一面観音が安置されています。

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本堂の舞台から五重の塔を望んで。桜や紅葉の頃はさぞかしと思われました。Pc132976

わずかに残った墓所の紅葉に無常の境地を感じました。

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梅心院脇の石段。

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幻想の夜

師走の声を聞くと嵐山の花灯路を想い浮かべます。昨年は京都最後の冬でしたが都合が付かなかったので、今年は満を持して行って来ました。点灯は午後5時からなので、手前の広隆寺で時間調整をしました。広隆寺は弥勒菩薩像で有名なので一度訪ねてみたい寺の一つだったのですが、今まで機会がありませんでした。

弥勒菩薩で有名なお寺だとロクに下調べもせずに行ったのですが、仏様を収蔵してある霊宝殿を訪ねて国宝が何体もあるのにびっくりです。不勉強で十二神将、不空羂索観音菩薩立像、十一面千手観音立像はその存在さえも知りませんでしたが、時間を超えて見る者を惹き付ける圧倒的なオーラを感じました。思いがけずに心が満たされて幸先の良いスタートとなりました。

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点灯直後の竹林。午後は時折小雨が降ったこともあってか、前回よりも人出は少な目でしたが、それでも人波が絶えることはありません。前回持参したコンデジはISO6400でしたが、今回のデジイチはISO1600までなので竹林を上手く映し込むことが出来ませんでした。(所詮は腕のせい?)

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竹林のライトアップは毎回違う場所が選定されているみたいで、前回のイメージのつもりで行ったので少し戸惑いました。

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場所によって光源のフィルターを変えて光に変化をつけています。これはちょっと怪しげな感じがしました。

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常寂光寺前に置かれた生け花。闇の中に浮かび上がって見る者を楽しませます。

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ここも人波の途切れることがない落柿舎。今年も柿が鈴なりでした。

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渡月橋。大勢の観光客が押し寄せるので、歩行者に注意を呼び掛けるハンドスピーカーの声が鳴り響いていました。

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二俣一夜城

一夜城と言えば秀吉の墨俣一夜城が有名ですが、「二俣一夜城と戦国時代絵巻」のイベントで二俣城址に期間限定で天守が復活しました。二俣城は浜松城を巡る北遠の要衝であった為武田と徳川が戦火を交えた戦国の城ですが、武将としての優れた資質を恐れた信長により、家康の嫡男、若干21歳の信康が武田への内通の疑いで切腹させられた悲劇の城として知られています。切腹に至ったいきさつには信長陰謀説のほかに諸説があり真相は闇の中ですが、このくだりは国民的歌手の三波春夫によって昭和47年に長編歌謡浪曲「天竜二俣城」として作品化されています。

イベントは10月31日・11月1日の両日でしたが、一夜城は8日までその姿を留めていると言うので早速見に行って来ました。

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当時のまま残っている石垣に聳える、にわか作りの天守です。ずい分昔にここを訪れたことがあったのですが、当時とは比べ物にならないくらいにきれいに整備されていてびっくりしました。

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石垣は浜松城と同じ野面積みですが、角の部分は算木積みを取り入れて安定性を増しています。

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蔵屋敷跡。二俣城はその後家康の家臣によって守られましたが、家康の江戸への転封の後、ほどなくして廃城となりました。今でも石垣や土塁、空堀の一部が残っています。

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追手門跡。しっかりとした石垣が残っていました。

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二の丸から追手門跡を望む。秋草や兵どもが夢の跡、と芭蕉を気取ってみました。昨今は歴史ブームとか、身近な史跡を再訪してみるのもいいようです。

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旅のフォトギャラリー ~柳川~ ’09.09.19

熊本県山鹿市から鳥栖方面に向けて国道443号を北上しました。今日は夕方までに山口県に辿り着ければ良いので、ラジオの渋滞情報を聞きながらのんびり走っていると標識の進行方向に柳川の文字がありました。ここも当初の予定にはありませんでしたが、最後の訪問地に決めました。

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柳川は水郷として知られていますが、今も町中に掘割が残っています。観光用の手漕ぎ船が行き来しているのですが、駐車場に車を置いて気ままに歩くことにしました。

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船頭さんが竹竿で操る手漕ぎ船の絶対的なスピードは知れているのですが、水の上は信号がないので移動速度としては結構速いものがあります。

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マンホールの蓋も掘割をデザインしていました。

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柳川は江戸時代は立花氏の柳河藩10万9千石の城下町でした。町を歩いているとこんな風景が残っていました。

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わずかに残る柳川城本丸の石垣。柳川城は明治5年の火災で主要部を焼失し、その後明治7年に決壊した海岸堤防の補修用として石垣が解体されてしまい城の輪郭を失ってしまいましたが、複合式層塔型5重5階の堂々たる天守を持ち、2度に亘る城攻めでも落ちなかった名城でした。城の跡地の大半は柳城中学、柳川高校の敷地となっており、この石垣は両校の間を抜ける細い道路に面した部分にわずかに残っているものです。

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掘割に面している鶴味噌醸造のナマコ壁。ここが私のBEST VIEW IN柳川でした。

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旅のフォトギャラリー ~鞠智城址~ ’09.09.18

鞠智(きくち)城は大和朝廷が唐や新羅の侵攻から太宰府を防衛するために、7世紀後半に築いた後方支援の為の山城です。鞠智城には石垣も一部に使われたようですが、主に土塁によって構成された城で、今回の旅のテーマの石の構築物からは外れますので番外編です。

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復元された八角鼓楼。緊急時に太鼓によって通信を行ったと考えられています。八角形の城郭建築物は安土城天守の一部など極めて限られた珍しい形です。

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復元された高床倉。後方支援基地なので大量の穀物を蓄える必要がありました。城内からこのような建物跡が多数発見されており、備蓄用の倉が多数建てられていたと考えられます。藁屋根にネットがかかっているのは防鳥のためです。

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復元された兵舎。防人達が寝泊まりしたものです。

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池の尾門の礎石。鞠智城では三つの門跡が確認されています。石に開けられた穴は門の開閉の際の軸受けとなったものです。

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池の尾門の復元模型。土塁の防衛線の上に櫓を置き、その下に片軸の門を配置しています。

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深迫門の発掘現場。手前の覆いが架かっているのが礎石です。トレンチを見ても門の配置は全く判りませんでしたが、おそらく池の尾門と同様の構えだと思われます。

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城内から見た堀切門跡。土の部分が門のあった所で、後方の森は土塁によって築かれた防護壁です。

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旅のフォトギャラリー ~豊後 岡城址~ ’09.09.17

臼杵から熊本に行くのには高速を使うと随分と遠回りになります。下道を行けば距離は稼げますが、山越えとなります。地理不案内な私にはベストなチョイスが出来ませんので、ここもカーナビに丸投げしました。ナビの通りに走っていると竹田市を通ることが判りました。こうして予定にはありませんでしたが、岡城に立ち寄ることが決まりました。

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岡城は竹田にあるために竹田城とも呼ばれていますが、私は岡城の方が好きです。荒城の月のモデルの城として有名ですが、作詞は土井晩翠で、詞のモデルとなったのは仙台の青葉城や会津若松の鶴ヶ城と言われますから歌詞と岡城の情景は直接結び付かず、ちょっと複雑な関係です。ただ、詞とメロディのどちらもが素晴らしく、両者が上手くマッチしたからこそ名曲と呼ばれるのだと思います。

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大手門跡。これを見ただけでも城の規模が窺い知れます。岡城は東西2.5Km,南北362mもあり、我が国最大の山城です。

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朱印倉東側の通路。岡城は城全体の区割りがほぼ残されており、主要施設跡や家老屋敷跡などを見ることが出来ます。

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二の丸北側の高石垣。急峻な崖に堅牢な石垣で守りを固めています。岡城は1586年に島津の大軍に攻められましたが、これを撃退しています。高石垣は1594年に中川秀成が城主になってからの築造のようですから、島津の来襲時にはまだなかったことになります。

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本丸跡。岡城は山上を切り開いて築城されたので、立地上からも台風の風害を受けやすく、そのせいか最初の天守は築城から70年ほどで倒壊してしまいました。1774年に三層四階で再建された天守は周囲の櫓と多門櫓で結ばれた複合連結式の優美なものだったようで、そのまま幕末を迎えましたが明治の廃城令によって取り壊されてしまいました。この結果として荒城の月のモデルの城として全国的に知られるようになったのですが、一方で石垣上にそびえる優美な天守の姿も見てみたい気がします。

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西の丸南側の石垣。石組みの巧みさが見て取れます。城内の建物は廃城令によって全て取り壊されましたが、石垣を見るだけでも優れた城構えが判ります。

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かつての大手口であった近戸門跡。この門をくぐった左右に家老屋敷跡が残っています。

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旅のフォトギャラリー ~長崎~ ’09.09.15

長崎のイメージとして真っ先に浮かぶのは坂と港と異国情緒・・・・。島原から長崎に向かう時、カーナビの目的地を何処にしようか一瞬考えました。そして、迷わず選んだのが長崎港でした。ここに車をおいてぶらぶらと市内を散策することにしました。

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歩きだしてすぐ目に留まりました。なぜか急に長崎にいることが実感出来てうれしくなりました。

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中島川に架かる眼鏡橋。水面に映るとなるほどメガネそのままです。市街地にあるので思ったよりも小さな橋でした。観光客が次々と訪れていましたが、橋の中央に立ち止まり延々と長話を続けたビジネスマンのグループの貴方達、そんなKYではビジネスの成果も知れていますよ。

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技術の進歩か、アーチが大きくなっています。近年の水害では眼鏡橋のように橋脚を持っていると流木が引っ掛かって橋が崩れる事例もありましたが、これなら安心です。

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石畳のオランダ坂です。もっと人通りで賑やかな風景を予想していましたが、平日故か静かな空間でした。

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長崎は坂の町と言われますが、このオランダ坂界隈の斜度はこれ位です。慣れているからか、タクシーが結構なスピードで下って行きました。

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40年振りのグラバー邸。当時より垢抜けたような気がしましたが、絵葉書どおりの姿でした。

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こんごう型イージス艦ちょうかい。グラバー邸からは長崎港が良く見渡せます。対岸の三菱重工の岸壁に弾道ミサイル防衛に改修したイージス艦のちょうかいが停泊していました。青いシートの部分はイージス用のSPY-1レーダーアンテナです。多分メンテナンスでカバーを取り外しているのだろうと思います。ちょうかい以外の3隻のこんごう型及びあたご型の2隻のイージス艦はすべてこの長崎造船所で建造されましたが、何故かIHIで建造されたちょうかいが佐世保に配属されています。

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ヘリコプター搭載型護衛艦くらま。ひゅうが型DDHが登場するまでヘリコプターを3機搭載出来る海自最大のDDHでした。

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旅のフォトギャラリー ~島原~ ’09.09.14

島原城と原城はよく混同されますが、天草四郎の天草の乱で一揆軍が籠ったのは島原城築城で廃城となった原城で、島原城からは20Kmほど離れた別の城です。

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本丸跡に天守、三重櫓が古図を参考にして再建されています。島原城の内濠はあまり水位がなく、石垣の高さを引き立てる結果となっています。Photo_21

二の丸跡。二の丸の外観を見ると島原城が堅城であったことが良く判ります。島原城は松倉重政によって対キリシタンの城として築かれた勇壮な城でしたが、養子勝家の圧政に立ち上がったキリシタンの島原の乱によって勝家は切腹を命じられ、以後城主が変転することとなりました。そんなことがあってか雑草が生い茂るままとなっており、住民の愛着が感じられないように思われるのは残念なことです。

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島原城の野外に展示されている石で出来た水道管と籠城の際の食糧備蓄用の瓶。二の丸跡を公共施設として利用しながら、郷土の文化財をこのような形で展示している島原市の神経が判りません。

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鉄砲町に残る水路と武家屋敷。水路は上水道として使われていたものです。

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流れる水は今でもすくって飲みたくなるほど清らかでした。

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水路周辺は住民の協力によって歴史的景観が保たれています。

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公開されている武家屋敷の一つである篠塚邸。他の邸宅もそうでしたが、屋根の藁ぶきが傷んだまま放置されているのが残念でした。

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山本邸にある障子戸の透かし彫り。武人でありながら風流をたしなんでいたことが、良く判ります。

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道の駅みずなし本陣ふかえから見た朝の普賢岳(平成新山?)。後列右側が愛車です。

島原は1763、1792年と噴火による災害をたびたび経験してきましたが、その都度復興して今日に至っています。ここ深江地区は平成3年に始まった大噴火によって甚大な被害を受けました。その被害の大きさは14日付の「今日は島原まで」の添付写真の通りですが、今日その痕跡を感じさせないほど見事に復興し、日常生活を送っていることにこの地に生きる人々のたくましさを強く感じました。

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旅のフォトギャラリー ~姫路城 その2~ ’09.09.13

天守はその威容を誇示して城主の権威を世に知らしめるために建てられました。そして、幕藩体制が崩壊し新しい政府が樹立された時、城はその役割を終えました。しかし見る角度を変えると違う顔を見せ、建てられてから400年以上経った今日でも見る者の心を捉えて離さないのは何故でしょう。

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備前丸からの天守。たくさんの門をくぐって、やっとここまで辿りつきました。

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天守の窓にある雨戸。比較のために持っていた手帳を置いてみました。防弾の為、厚さ10cm程もある板が使われています。

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天守内部に供えられた火縄銃。機能重視の形状から幕末近くのものと思われますが、銃床の形がきっちり揃っており、一定の規格で作られていることがうかがえます。

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天守内部に使われていた釘隠し。くり抜きの穴はどう見ても ハート型ですが、あの時代に既に伝わっていたのでしょうか?

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現在では高層の建物に避雷針は当たり前ですが、それがなかった昔は天守や寺院の高塔の多くが落雷による火災で焼失しています。この鯱のおかげかどうか、ここは火災には遭わずに済みました。

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石垣の角の部分はロッククライミングで言うところのカンテ登りの要領で登られてしまう可能性があります。これを防ぐために石落しが設けられ、ここから攻め手に岩石をぶつけます。

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西の丸の南端から。

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西の丸化粧櫓から。

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天守群が聳え立つ姫山を望んで。城は多くの人がかかわり、時間や多額の費用、労力をかけて築き上げてきましたが、こうして眺めると天守が多くの建物群に守られていることが良く判りました。

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